「フリードリヒ大王」
AD 1712〜86年




[序章〜]

[18世紀以前のヨーロッパ大陸]

[神聖ローマ帝国 オーストリア・ハプスブルク王朝 女帝マリア・テレジア]

[プロイセン王フリードリヒ大王]

[七年戦争]

[大王の斜行戦術]

[七年戦争の戦略と戦術]

[大王の治世]





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■[序章〜]
フリードリヒII世は、フランスの英雄ナポレオンや第三帝国総統ヒトラー、電撃機甲戦を編み出したドイツ国防軍
グーデリアン上級大将が、特に信奉していた事で広く知られている。ナポレオンはプロイセン遠征の際フリードリ
ヒII世の墓があるポツダムのサン・スーシ宮殿を訪れ、「大王が在位ならばプロイセンに触れる事すら出来なか
った」との言葉を残した。ヒトラーも神聖ローマ帝国時代の「第一帝国」、フリードリヒII世以来の鉄血宰相ビスマ
ルクを擁したヴェルヘルムI世時代のドイツ帝国を「第二帝国」として自らの帝国をその後継として「第三帝国」と
呼んだ。 フリードリヒII世は内外から畏敬の念を込めて大王と呼ばれたが、まさにその名にふさわしく君主とし
ての器と、軍事リーダーとしての資質を兼ね備えた類稀な才能を発揮した。 その才能は当時のヨーロッパ大陸
の超大国ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアからシュレージエン(シレジア)地方を獲得し一躍プロイセンを
ヨーロッパ的軍事強国に押し上げた。



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■[18世紀以前のヨーロッパ大陸]



1740年ヨーロッパ大陸


(序説)
17世紀から18世紀にまたがる中部ヨーロッパ大陸は、前世紀以前より始まった宗教改革で旧教同盟(リガ)と
新教同盟(ウニオン)の対立が、やがて「三十年戦争」という国際的大戦争にまで発展し、戦場となったドイツ領
邦は史上稀に見る甚大な被害を被った。 この戦争で被害を免れたドイツ北方のプロイセン王国が台頭し同じド
イツ民族王朝であるハプスブルク家と対立する事は必然であった。 これ以前のヨーロッパでも神聖ローマ帝国
皇帝のハプスブルク家が政治的に大きな影響力をもっていた。

(神聖ローマ帝国・オーストリア・ハプスブルク家)
1516年にハプスブルク家のカール5世(カルロス1世:スペイン王名)がスペイン王をとなり1519年に神聖ロ
ーマ帝国皇帝にも選出されるとドイツ=スペインにまたがる空前の大帝国が誕生する。 しかしカール5世の治
世には、ルターによる宗教改革が起こり新教徒(プロテスタント)に十分な対策を講じる事が出来ず1556年に
は失意のうちに退位する。オーストリア・ハプスブルク家はフェルディナント1世が継いだが、スペイン・ハプスブ
ルク家はカール5世の子フェリペ2世が継いだ。

(スペイン・ハプスブルク家)
フェリペ2世は、十字軍遠征以来長らくヨーロッパ大陸を脅威に曝し続けた強大なオスマン帝国を「レパントンの
海戦」(1571年)で完勝し地中海から完全に駆逐した。 1580年には、同君連合によりポルトガル王兼ねると、
新大陸及びアジア植民地にもおよぶ空前の海上帝国となり「太陽の沈まない国」と形容され全盛期を迎える。
しかし、新大陸の銀や東方の香辛料貿易等で得られた莫大な利益は上層階層に集中し、自国内の産業発展
にはなんら還元されなかった為、次第に国家財政を圧迫していった。 そんな中、スペイン・ハプスブルク家の経
済基盤だったネーデルラント・アントワープは、植民地貿易港として極度に繁栄していたが、カール5世時代から
フェリペ2世の治世でも新教徒弾圧と重税は苛烈を極めており、1581年には「オランダ独立宣言」を招いてしま
う。このオランダを支援したイギリスのエリザベス1世はスペインが最も期待を寄せていたスコットランド女王のメ
アリ・スチュアートを処刑した事によって、当時最強と謳われたスペインの「無敵艦隊」を迎え撃つに至る。 158
8年にはスペイン無敵艦隊はアルマダ海戦に完敗し、制海権を失いオランダの独立は事実上達成された。以後
フェリペ2世の晩年には衰退の一途をたどる。

(フランス)
スペイン・ハプスブルク家フェリペ2世が全盛期を迎えた頃、フランスでは宗教改革の余波が波及し旧教徒と新
教徒の壮絶な内乱状態にあった。 カルヴァン派(ユグノー)は貴族・商工業者を中心とした新教徒で旧教のフ
ランス王と激しく対立し、シャルル9世の治世にユグノー戦争(1562〜98年)に発展していく。 戦況は激烈を
極め国王軍による新教徒虐殺が横行したが、「サン=バルテルミの虐殺」を乗り越えたナヴァール王アンリが
旧教(カトリック)に改宗してフランス王位継承しアンリ4世としてブルボン王朝を誕生させ、ナントの勅令(159
8年)を発して内乱を収拾した。 アンリ4世の子ルイ13世の治世では、フランス絶対主義王政が確立されハプ
スブルク家に対抗し三十年戦争(1618〜1648年)に介入した。ルイ13世の子ルイ14世は「太陽王」と呼ば
れブルボン王朝全盛期を迎える。 彼はハプスブルク家打倒の為4度にも及ぶ侵略戦争(ネーデルラント継承
戦争・オランダ侵略戦争・ファルツ継承戦争・スペイン継承戦争)を行った。特にスペイン継承戦争(1701〜1
714年)はスペイン・ハプスブルク家が断絶しルイ14世の孫のフェリペ5世がスペイン王を継承した事に、フラ
ンスの強大化を恐れたオーストリア・ハプスブルク家とイギリス及びオランダが開戦した。 ユトレヒト条約(171
2〜15年)でフランス・スペインが合弁しない事を条件に、フェリペ5世のスペイン王位継承権を承認し終戦した。
 しかし、フランスはイギリスとの植民地戦争で劣勢を強いられ同条約で大きく植民地を喪失し、相次ぐ侵略戦
争で国力・財政は疲弊しきって衰退のきっかけをつくって太陽王ルイ14世は1715年にこの世を去った。

(イギリス)
一方イギリスではヘンリ8世がアン=ブリンと恋に落ち、正妃との離婚問題がローマ教会と対立し、1534年に
首長令によって自らイギリス国教会の長と同時にイギリスにおける絶対王政を確立した。 ヘンリ8世とアン=ブ
リンの子エリザベス1世(女王)の治世には、スペインのフェリペ2世の求婚を退け一生独身を通し、1588年に
は、無敵艦隊をアルマダ海戦にて撃破し制海権を掌握すると、海外植民地政策の基礎を築いてイギリス絶対王
政の極盛期を現出した。

(ロシア)
また、ロシアでも1328年にイヴァン1世がモスクワ大公となるとイヴァン3世の治世では「タタールのくびき」(ト
ルコ系)からロシアを解放し、イヴァン4世(雷帝)の頃にはロシアの基礎を築いた。 その後貴族間の対立で大
混乱に陥ったが、1613年にロマノフ朝が誕生すると動乱は終息した。 1682年にはピョートル1世(大帝)即
位し西欧的近代化を強力に推し進めて、ロシアの国際的地位を飛躍的に高めた。



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■[神聖ローマ帝国 オーストリア・ハプスブルク王朝 女帝マリア・テレジア]



マリア・テレジア

居城 シェーンブルン宮殿(ウィーン)


(ハプスブルク家)
神聖ローマ皇帝位を独占しヨーロッパで最も格式のある最強の名門として国際政治に常に多大な影響力を行使
し続けたハプスブルク家だが、その最初の歴史は、神聖ローマ帝国領における国境警備を司る行政官として、ア
ジア系マジャール人(現ハンガリー)の侵入を防ぐオストマルク(オーストリア)辺境伯の一諸侯に過ぎなかった。
しかし、他のドイツ領邦諸侯が帝権に関わる権力闘争に傾倒していく中、ハプスブルク家の関心は自領経営第
一主義に徹して帝国外領土を着実に拡大していった。 そんな中、神聖ローマ帝国皇帝ホーエンシュタウフェン朝
が断絶すると空位時代が続き、この混乱に乗じて1273年にルードルフ1世が皇帝に選出されるとハプスブルク
朝が起こる。 その後2人の皇帝を輩出して1438年アルブレヒト2世が即位すると、以後神聖ローマの帝位を世
襲し事実上独占する。 その後、ネーデルラント(オランダ・ベルギー地方)、ベーメン(現チェコ)、ハンガリーと自
領土を拡大すると欧州随一の強国へと発展していくが、これが起因となってフランス=ブルボン朝と激しく対立し、
欧州国際政治の対立図式を決定づける事となった。 1618年から48年に4期に渡って行われた「三十年戦争」
はドイツ領内での新教徒と旧教徒の内戦が外国諸国が介入する国際戦争にまで発展し、ウェストファリア条約で
終戦したものの、戦場となったドイツは大きく荒廃しハプスブルク家は領土を大きく失った上、神聖ローマ帝国内
のドイツ諸領邦の独立主権が確立し帝国内のドイツ統一の悲願は解体され、中世以来のドイツ分立状態はより
一層決定的となった。 また、同条約でスイスとオランダの独立が正式に承認されハプスブルク家の権威は、一時
フランス=ブルボン朝に押さえ込まれた。 その後、スペイン・ハプスブルク家が断絶すると王位継承問題が惹起
し再びフランス=ブルボン朝の太陽王ルイ14世と対立する事となる。 「スペイン継承戦争」(1701〜13年)で
はオーストリア軍のオイゲン公、イギリス軍のマールバラ公の活躍もあって戦況を有利に進めたが、同盟国の内
部事情により和議を結んで終結した。 オーストリア・ハプスブルク家は、ラシュタット和約でスペイン領ネーデルラ
ント(南部ベルギー)を領有する事となりフランス=ブルボン朝の強大化を阻止した。

(女帝マリア・テレジア)
1711年に神聖ローマ皇帝に即位したカール6世は、在位中に皇太子が夭逝した為、ハプスブルク家の家憲(プ
ラグマティッシェ=ザンクツィオン)をまげて一人娘のマリア・テレジアに同家の全領土を相続する事を図ったが、
カール6世の死後、マリア・テレジアが神聖ローマ帝国ハプスブルク朝第17代皇帝に即位すると、プロイセン王
フリードリヒ大王がシュレージエンに進攻し「オーストリア継承戦争」(1740〜1748年)が勃発した。ドイツ内の
ザクセン公、バイエルン公、スペイン・ブルボン家が相次いで異議を唱え翌年には、フランス・ブルボン家も参戦
した。 窮地に立たされたマリア・テレジアは、シュレージエンを放棄する約束でフリードリヒ大王と和議を結び、巧
みな外交戦略でドイツ国内の諸侯を懐柔しフランス軍を各個撃破すると、イギリスがアメリカ大陸方面でフランス
軍を攻撃(ジョージ王戦争)し危機的状況を脱した。アーヘンの和約で終戦し、マリア・テレジアはプラグマティッシ
ェ=ザンクツィオンの効力を各国に認めさせる代償として、プロイセンのフリードリヒ大王にシュレージエンの領有
を割譲した。



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■[プロイセン王フリードリヒ大王]



1741年フリードリヒII世 (右から2番目)

サン・スーシ宮(無憂宮)ポツダム


(ホーエンツォレルン家)
フリードリヒ大王を輩出したホーエンツォレルン家は、同じドイツ民族のハプスブルク家と並ぶ名門としてドイツ国
内で大きな影響力を行使したが、元は南ドイツ・シュワーベンの小貴族だった。 1191年にニュールンベルク城
伯となると着実に勢力を拡大し、1415年にはホーエンツォレルン家フリードリヒI世が、神聖ローマ皇帝ジギスム
ントにブランデンブルク選帝侯に封じられ、1618年には、ヨーハン・ジギスムントがブランデンブルク選帝侯国と
プロイセン公国と合弁し、フリードリヒ=ヴェルヘルムの時代には大選帝侯に昇格し、1701年には、その子フリ
ードリヒ3世がスペイン継承戦争で皇帝側について王号を許され、初代プロイセン王フリードリヒ1世となり、ホー
エンツォレルン朝を開く。

(フリードリヒII世:大王)
フリードリヒ大王の父、プロイセン王国第2代王フリードリヒ=ヴェルヘルム1世は支配階級の地主貴族(ユンカー
)を官僚・軍隊の中枢に登用し、強力な軍国的絶対主義国家の基礎を築いた。1740年、国力不相応の約10万
と言われる常備軍を受け継いだフリードリヒ大王は、同じ年にハプスブルク家の家督を相続したマリア・テレジア
の帝位継承問題で激しく対立する事となる。

(オーストリア継承戦争)
オーストリア・ハプスブルク家の家督相続問題に端を発したオーストリア継承戦争(1740〜1748年)はオース
トリアの弱体化を衝いてフリードリヒ大王がシュレージエンに進攻して口火が切られた。 大王は早々にシュレージ
エンを占有すると同地の確保に専念しフランス軍及びオーストリア軍の動向を静観していた。 1742年初頭には、
大王はフランス軍と共同作戦を取ることを決意し合流を企図するが、頑強なオーストリア軍の抵抗にあってフラン
ス軍の前進が立ち往生すると、大王は西進を諦め突如オーストリア帝都ウィーンへ向け南進を開始する。 ウィー
ンの前面に進出したプロイセン軍だったが、急激な前進を行った為軍と策源(兵站基地)が長大となり、オーストリ
ア軍別働隊が後方連絡線を脅かした為、大王は戦史上有名な「戦略退却戦」を行う。大王率いるプロイセン軍は
突如分散して退却を開始したが、オーストリア軍はプロイセン軍の囮に誘導され遠くシュレージエンまで追撃を行
うと、合流し態勢を立て直したプロイセン軍の反撃にあい、逆に猛追撃で戦果を拡大されてしまい潰走してしまう。
たまらずマリア・テレジアは大王にシュレージエンを譲る約束で単独和平を申し入れプロイセンは、同戦争から離
脱した。 しかし、マリア・テレジアの権謀術策によってドイツ内の領邦国家が次々と懐柔されフランス軍も海外の
植民地戦争でイギリス軍との対立で疲弊してくると、フランス軍はオーストリア軍に相次いで撃破され戦況はマリ
ア・テレジア側に有利になる。 此処に至り大王は再び戦争に介入するがフランス軍は戦意喪失し緩慢な動きに
とどまり、オーストリア軍の頑強な抵抗でベーメン(ボヘミア)から撤退を余儀なくされた。 1745年12月にドレス
デンの和約でシュレージエンの割譲を再確証させ1748年には戦争は終結した。 プロイセンが、大国オーストリ
アより豊かなシュレージエン地方を獲得した事は、欧州における国際的地位を飛躍的に高め大国としての地位を
確固たる物にしたと同時に、これ以後フリードリヒII世は大王と呼ばれるようになる。



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■[七年戦争]




オーストリア継承戦争では、ハプスブルク家の弱体化を見抜いた大王が機先を制して肥沃で人口密度の高いシ
ュレージエン地方を獲得し一躍大国の仲間入りを果たしたが、1756年に大王だけではなく欧州各国にとって衝
撃的な出来事が起こる。 欧州の外交史上最も劇的といわれるオーストリア=ハプスブルク朝とフランス=ブル
ボン朝の同盟が結成された。 長らく欧州国際政治の対立構造を形成していた両家が抗争を止め同盟を結んだ
事は、周辺諸国に計り知れない衝撃と驚きをもって受け止められた。 とりわけプロイセンはオーストリア・マリア
・テレジアとの対立が続いており、前面と背後に大国に圧迫される窮地に立たされる事となった。 此処に至り1
756年8月末、再び大王はオーストリア軍のシュレージエン侵攻を防ぐ為、予防戦の口火を切る。 大王は、オー
ストリア継承戦争後、シュレージエン地方にオーストリア軍が侵攻する事を想定して、周到に兵を配置し兵站を
備蓄していた為、その確保には自信があったが、オーストリア軍を迎え撃つには不向きな地であった。
そこで大王は、親オーストリア派でドイツ諸侯の急先鋒ザクセンに進攻し主戦場をザクセンで行いオーストリア軍
の関心をシュレージエンからそらす目的もあった。 予防戦争の口火を切ったプロイセン軍は当初の戦略奇襲を
達成しザクセンのドレスデンを損害を受けずに占領したが、ロシアが東ヨーロッパに及ぼす影響力に危機感を示
しオーストリアと同盟を結成するに至るとプロイセンは、欧州の三大強国(オーストリア・フランス・ロシア)、ドイツ
領邦諸侯・スウェーデンと対峙する事となる。 一方イギリスは唯一プロイセンを資金面で援助していたが、その
目的は海外で行われているフランスとの植民地戦争を有利に進める為であって、主力軍はアメリカ大陸にあり
プロイセンは援軍の期待は出来なかった。1756年10月 オーストリア軍をライトメリッツ付近のロボジッツの戦
闘にて撃破する。1757年4月には、ベルリン(プロイセン王都)とウィーン(オーストリア帝都)の中間に位置す
るベーメン(現チェコ・ボヘミア)地方のプラーグ(現プラハ)にエルツ山脈を越え南進する。 オーストリア軍は河
を前にした高地の要衝に陣地を構築していたが、大王は深夜密かに主力歩兵を上流より渡河させオーストリア
軍高地陣地側面を奇襲させた。プロイセン軍の奇襲攻撃はオーストリア軍の迅速な正面変換により当初の優勢
は消滅し、お互いが横隊隊形で火力を前面集中すると、勝敗の動向は予断を許さない状況となる。その後大王
が別に移動命令を下していた軽騎兵部隊の到着をもってプロイセン軍の優勢は確定的となり、オーストリア軍は
退却を余儀なくされたがプロイセン軍も1万名もの死傷者出してしまった。
その後、プラーグを包囲したプロイセン軍に対し後詰めで来援したオーストリア軍を率いるのは名将レオポルト・
フォン・ダウン将軍で、大王もプラーグ包囲部隊を残して主力をオーストリア軍・ダウンへ向けた。 6月プラーグ
近郊のコーリンにて夜襲を敢行したが、オーストリア軍右翼への斜行戦術は失敗し、プロイセン軍は1万5000
名もの損害を被った為プラーグ包囲を解いて北ベーメンへ撤退する。プロイセン軍の敗走を知った連合国(オー
ストリア・フランス・ロシア)は相次いでプロイセン王都ベルリンへ殺到する。 ロシア軍はプロイセン王国の飛び
地となっている東プロイセンへ侵入、フランス軍はハノーヴァーに侵入しヒルドブルクハウゼン将軍(ザクセン軍
)の混成軍と合流を企図していた。 仏軍と混成軍の合流はプロイセン軍にとっては戦略的敗北を意味するもの
であったから、大王は合流を阻止する為に10月になってザクセンで機動戦を展開する。ライプチヒを経てフラン
ス軍のベルリン入城を阻止する事に成功したが、以前オーストリア軍・フランス軍・ロシア軍に完全に戦略的包
囲網を形成され、ベルリンは既にオーストリア軍別働隊の攻撃・掠奪にあっていた。 完全に窮地に立たされた大
王は、ザクセン・シュレージェンにて敵を捕捉対峙すると一時後退し退却すると見せかけて反撃しオーストリア軍
を各個撃破していく。11月5日にはロスバッハにてオーストリア・ザクセン連合軍を斜行戦術にて撃破した。 ロス
バッハの戦闘では、プロイセン軍2万5000、連合軍は6万4000と大差がついていたが、両軍相手の側面に
迂回機動を行い旋回速度に卓越したプロイセン軍が大勝利を収めた。 この戦いでプロイセン軍は損害800人、
一方連合軍は8000人の損害と1万の捕虜を出してしまう。 その後、12月大王は3万の軍勢でシュレージエン
・ブレスラウ市へ北上してきたカール王子率いるオーストリア軍約6万5000を撃破する為、ロスバッハから270
kmを12日間で急行しロイテンにて再び斜行戦術にて撃破している。 大王はこの一連の勝利でザクセン及びシ
ュレージエンの敵を駆逐する事に成功し一時的に大国包囲の危機を脱した。 1758年に入っても戦闘は継続さ
れ、以前大国包囲網はプロイセンを窮地に立たせていた。 7月大王は、再びベーメンにてオーストリア軍を撃破
していたが、ロシア軍フェルモール将軍がベルリンを目指し、その東方200kmのポーゼン(現ポーランド・ポズ
ナニ)に迫っている報を受けると、急遽ベーメンでの作戦を中止しロシア軍の迎撃を企図する。 8月、ベルリン東
方のツォルンドルフで大王は斜行戦術を駆使して敵側面に進出するがロシア軍も正面の変換に成功しお互いが
正面攻撃を行う激烈な戦闘となったが、通過不可能地区を突破する迂回機動をした騎兵指揮官セイドリッツの活
躍により辛うじて勝利を得たが、完全にはロシア軍を撃滅するには至らなかった。また自軍も甚大な損害を被り、
これ以上の追撃も不可能となったし、ザクセンのドレスデン市に三度オーストリア・ダウン将軍が侵攻して来た為
、取り急ぎザクセンへきびすを返す事となる。 しかし、10月には、ホッホキルヒにてダウン将軍の奇襲攻撃に敗
走するはめとなる。大王は、シュレージエンへ一時後退した後、再度ドレスデンへ兵を進め、ダウン将軍のドレス
デン占領を阻止する。1759年に入るとプロイセン軍は疲弊し、8月にはクネルスドルフでは8万のオーストリア
・ロシア連合軍と5万のプロイセン軍が大規模な会戦で激突し、大王は生涯で最悪の敗北を味わう事となる。
続いて、マクセンでもオーストリア軍ダウン将軍に相次いで敗北してしまうと、以後の作戦は防衛戦に徹し内線
作戦の継続も困難な状況に瀕する。 大王は、外交的努力とロシア軍に対する計略を併用しプロイセン東部地
方を圧迫するロシア軍の攻勢を緩和させる事に成功し、時間的余裕を一時的に得ることとなる。1760年には、
徴兵により大幅に兵力を回復したプロイセン軍は、オーストリア軍を8月にリークニッツにて撃破し、11月には、
大王の戦勝で最も評価の高いトウガウ会戦でも勝利する。 しかし、これまでに被った損害で総兵力が6万にま
で激減し、プロイセン軍は麻痺状態となり、以後お互いが損害を恐れ膠着状態となるが、その間欧州の諸情勢
が変化しイギリスとフランスの植民地戦争はイギリスの勝利に傾きつつあり、フランスの対プロイセン戦争は緩
慢となる。また自国領内での天災によって兵を引き上げる事となる。一方ロシアでは、女帝エリザベータが逝去
し後嗣者となったピョートル3世は軍を引き上げるとともにプロイセンへ経済的援助を行うに至る。 1762年に
はフランスがイギリスに和議を申し入れると同戦争から離脱し、強気だったマリア・テレジアも翌年には大王とフ
ベルトゥスブルク和議でシュレージエンの領有を認めて戦争は終結した。


1748年〜オーストリア継承戦争後のヨーロッパ大陸










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■[大王の斜行戦術]




青=プロイセン軍  赤=敵軍
[斜行戦術について(1)]
1.    戦場に進入する両軍。プロイセン軍大王は、進入時より斜行進で進入する。
2.    大王は、横隊隊形に組むと見せかけ敵軍左翼側面に向け斜行進を開始する。
3.    プロイセン軍最右翼は、敵軍左翼へ向け迂回機動を行い全軍これに続いている。
4.5.  プロイセン軍最右翼が迂回機動を終了した頃、敵軍もプロイセン軍の側面展開に気づき、逆に
      プロイセン軍左翼に側面攻撃を行う為の機動を開始する。まず、赤軍最左翼を旋回軸(中心に)
      正面変換を開始する。
6.7.  敵軍側面に機動を行ったプロイセン軍は、90度旋回し距離100〜150歩で第1列目が射撃を
      開始する。
8.9.  プロイセン軍は随時90度旋回を終了しつつあり第2列及び第3列の射撃が開始され、間断ない
      火力が敵軍最左翼に集中する。
10.11.プロイセン軍は、横隊隊形を完成し敵軍左翼に火力集中を行う。 敵軍最右翼は、旋回軸より
      距離がある為、その機動に時間を要してしまう。
12.13.プロイセン軍は、火力を前面に集中し、敵軍左翼は壊滅状態になりつつある。 敵軍右翼は攻撃
      に参加出来ず遊兵となっている。  

[斜行戦術について(2)]
「斜行戦術について(1)」では、騎兵と砲兵を考慮していない為、机上論となっている。 実際の戦闘では、歩兵
の前面に展開した砲兵がまず火力支援を行い、歩兵の前進を援護している。 砲撃は榴弾により敵砲兵への攻
撃から煙幕による味方歩兵の機動を隠匿する為に行われる。歩兵が砲兵より前面に進出すると、砲撃の間断
を無くす為砲兵隊は分隊し交互前進を行う。 (1)の歩兵では、敵軍(赤)最左翼へ側面展開する為斜行進(45
度方向)を行っているが、これは机上論で、実際に大王は幾つかの試行錯誤の結果何パターンもの迂回機動を
考案している。 この様な正確に計算された機械的斜行進は、厳格な規律と訓練を必要とし、行進方向と旋回タ
イミングは大王の卓越した状況判断力によるところが大きかった。 また、大王は軽装の騎兵隊を多数編成し戦
場での機動力を大幅に向上させている。 これは、側面を曝し敵の集中攻撃を受ける最も危険な歩兵の斜行進
時に騎兵の投入によって援護する為である。また、敵軍の側面攻撃及び正面変換を阻害または遅延させる為
に大王は躊躇無く予備騎兵力の投入を行い、自軍斜行戦術による敵側面への攻撃を可能とした。 その他に大
王は、 騎兵砲兵隊を編成し砲兵の機動力を飛躍的に向上させ、敵の意表をつく方角からの砲撃を成功させて
いる。プロイセン軍の歩兵は非常に練度が高く、横隊隊形においては、縦深6列から3列とさらに薄くなっており、
他国の軍が1分間に2〜3発の射撃が普通だった頃、5発と猛訓練が功を奏していた。 これは、鉄製の込め矢
の採用で迅速な次弾装填が可能だった為である。  当時の歩兵は傭兵が中心で真の忠誠心は欠けていたが、
「兵をして敵よりも下士官の鞭を恐れしめよ」の通り隊形を乱し逃亡を図る者は容赦無く射殺される厳命が下さ
れていた。

[斜行戦術について(3)]
大王の当時は、戦場において先に横隊隊形を完成させた方が火力を前面に集中可能で、司令官の采配は
その一点にのみ努力が払われた。大王は、その横隊の弱点とも言うべき翼側(側面)へ展開する為に戦場
進入時より階段状で進入している。これは旋回軸(中心)を部隊が旋回する時中心に近い部隊と遠い部隊
では距離差が生じ結果時間差が生じてしまう。この差を無くす為に大王は戦闘初期から斜行隊形で進入し
、敵側面への展開を迅速なものとした。 斜行戦術は横隊戦術の側面弱点を衝くだけでは無く、敵側面へ展
開する事により、敵に正面変換という急遽変更を強いる事によって間接的奇襲の意味合いも発生する。
大王は、敵に先に横隊を完成させ油断させると斜行隊形で進入し横隊になると見せかけて、敵翼側へ展開
した時には、実は横隊で正面に火力集中しているのはプロイセン軍率いる大王その人であった。

最後に、斜行戦術は地形、天候、時間帯(夜間)によっては影響を受けやすく、数万に及ぶ軍勢を機械的に
正確に機動させる事は非常に困難を伴なった。 また、七年戦争後期にはよく研究され大王の斜行戦術は
看破されて何度か敗北を味わっている。しかし大王の一貫した陣頭指揮と他国の軍隊より終始、質(練度)
が高かった事が幾多の戦勝をもたらした。



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■[七年戦争の戦略と戦術]


1756年より1763年まで7年間行われた戦争は通称七年戦争と呼称された。端を発したのは17世紀から積
極的な植民地経営を始めた英仏間の植民地獲得戦争が起因となっている。 北米大陸で行われた両国の植民
地戦争は、フランス=ブルボン家ルイ14世が起こしたスペイン継承戦争後フランスの優位が崩れ、以後英国側
に有利に進められる。これに危機を抱いたフランス=ブルボン家は長年の仇敵だったオーストリア=ハプスブル
ク家と外交革命で同盟を締結する。 ヨーロッパ大陸での後顧の憂いをたったフランスは、北米大陸で攻勢に転
ずる事となる。一方オーストリア=ハプスブルク家マリア・テレジアは、長年抗争を続けていたブルボン家と同盟
を結んだ事により全兵力をオーストリア継承戦争後にプロイセン王国に割譲したシュレージエンへ指向する事が
出来る様になる。この様な状況でプロイセン王国フリードリヒ大王は英国からの資金援助を得ていたものの、戦
略的には孤立無援となりロシアの参戦で四面楚歌に陥っていた。しかし、七年戦争を辛うじて戦い抜いた勝因は
、他国軍と違い大王が政治と軍略を統制できる立場にいた事。 大王は全ての戦闘において陣頭指揮を行い、戦
闘に勝利する為の戦略を決定する最高意思決定者であった事も他国の軍隊とは明らかに違っていた。 その迅
速な軍略の采配と戦場での陣頭指揮によって素早い状況判断を行えた。 また、大王は主作戦域をザクセンと選
定した理由は戦略的見地からしても必然であり、予防戦争という機先を制した事によって主導権を握りオーストリ
ア軍をシュレージエンではなくザクセンへ指向させる事に成功している。これは、オーストリア=ハプスブルク家
の目的は先のオーストリア継承戦争で失地したシュレージエンの奪回であったから、大王が消極策をとり先にオ
ーストリア軍に行動されていたならば主作戦域はシュレージエンとなりプロイセン軍はその防衛に奔走して劣勢
に立たされてしまうが、ベルリンより近いザクセンへ進攻し、さらに南下しベルリンとウィーン(オーストリア帝都)
結ぶ交通の要衝ベーメン地方プラーグ方面へ進撃すれば、オーストリア軍はシュレージエンへ軍を侵攻すると
ベーメンのプロイセン軍に後方連絡線を脅かされる為、大王の意図したザクセン・ベーメン地方へと指向される
事となる。 シュレージエン防衛ではなくザクセンへの先制攻撃の戦略的判断は大王が七年戦争を戦い抜いた
最も大きな要因となっている。 主戦場としたザクセンは、城砦及び要塞が少なく結果両軍が対峙し平野で戦闘
を行う会戦となった為陣頭指揮で一日の長がある大王に有利に働いた。当時他国軍隊で採用されていた火力
が前面に最大集中する横隊戦術に対する方策として、プロイセン軍は大王の幾つかの実験演習と試行錯誤に
よって横隊の側面に展開する斜行戦術を実践していた。 この戦術の運用に際しては厳格な規律と訓練を必要
とし指揮官の状況判断能力に大部分が頼っていたが、大王の卓越した指揮とヨーロッパでは勇名を馳せたプロ
イセン軍隊の練度は非常に高かった。平野が多いザクセンで会戦が主だった七年戦争は、大王の手塩にかけ
た軍隊の能力を最大限遺憾無く発揮できたと言える。

欧州の列強オーストリア、フランス、ロシアに三方向から包囲されるという絶体絶命の危機を脱したのは、ザクセ
ン、ベーメン地方での中央位置を占める内線戦略を行えた事も勝因となっている。 内線戦略は、複数の敵と戦
略的に対峙する場合、自軍は策源(兵站基地)との連絡線を内側に保持したまま円周上にある敵が相互支援又
は合流を果たす前に中心から突出し撃破する。 円周内では、自軍は短距離に機動が可能で、敵を撃破した後
は反転して次の敵を攻撃出来る各個撃破が行える守勢的戦略である。プロイセン軍大王は、西よりフランス軍
、東からロシア軍、南よりオーストリア軍を迎撃する為にザクセン、ベーメンを中心位置にその円周上に接近する
敵軍を戦略的高機動によって各個撃破する内線作戦を行える立場にいた。大王は終始、この内線の利、中央位
置という有利な立場を放棄せず、連合軍の相互支援及び合流を果たす前に決戦を挑み撃破している。大王は七
年戦争全期間を通じて多くの戦勝を勝ち得たが、また多くの戦術的失敗をも経験している。 しかしながら戦略的
な意味では、内戦の利を常に維持していた為戦術的失敗でも壊滅的危機を回避できたと言える。開戦緒戦から
シュレージエンを策源に防衛に徹していたならば列強三国の相互支援は緊密となり、戦略的に窮地に立たされた
事は明らかであった。

七年戦争の後期には、大王のプロイセン軍は勝利・敗北の一進一退を繰り返したが、徐々に兵力を消耗し練度
の高い兵士を多数失い以前の様な斜行戦術は期待できない状況に陥った。 しかし、欧州の諸情勢が変化の兆
しを見せるとプロイセン包囲網は緩まり大王の有利に傾く。その趨勢を決定付けたのが、北米大陸でのイギリス
軍ウルフ将軍がケベックよりフランス軍を駆逐しとことである。この事でフランスはプロイセン侵攻の為派遣して
いたハノーヴァー、ベルリン方面の兵力を引き上げ、事実上七年戦争から脱退した。ロシアでは、東欧での影響
力を拡大しようと対プロイセン政策を強力に推進していた女帝エリザベータが逝去し、かわって即位したピョート
ル3世は大王の信奉者で親プロイセン政策を行う幸いが生じる。フランス、ロシアと相次いで戦争から脱退する
に至るとオーストリア・マリア・テレジアは単独でプロイセンに対抗するには不利な状況となるとともに自国背後
に存在する強大なオスマン帝国の脅威が再発すると、大王にシュレージエンの領有を認めさせ戦争を終結させ
た。大王は七年戦争を通じて列強に完全包囲される危機に瀕し多くの将兵を消失したが、人口と農業生産力の
高いザクセンを獲得した事と生命線である肥沃なシュレージエンを保持した事により戦後急速に国力を回復し、
プロイセンの欧州大陸列強としての立場と国際政治での影響力を不動のものとしたと同時に、ドイツ民族のプロ
イセンとオーストリアの二元化が決定付けられた。



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■[大王の治世]

プロイセン王国第三代王フリードリヒ2世(大王)は皇太子時代の幼少期より文学・詩文・音楽を親しみ、父王(フ
リードリヒ=ヴェルヘルム1世)の軍国主義を忌み嫌い確執が生じていた。 大王が、8歳の時には父王に反発し
国外逃亡未遂事件を起こしたが、20歳の時に和解し軍務に就いている。 ハプスブルク家とも親交があり青年期
には神聖ローマ帝国皇帝カール6世と娘のオーストリア皇女マリア・テレジアと親密だった。 カール6世の姪にあ
たるエリザベート・クリスティナを正妃に迎えるが、その後ハプスブルク家との関係は悪化の一途をたどる。 174
0年にプロイセン王に即位すると、カール6世の逝去に伴ない継承問題が惹起し、マリア・テレジアと激しく対立す
る事となる。シュレージエンの保有を達成した大王は、その防衛に努め富国強兵政策を推進する事になり、官僚
機構を整備し絶対王政主義を確立する。その後、七年戦争後は重商主義的経済統制を行って国内の経済発展
に努めた。ザクセンとシュレージエンの領有によって人口と経済活動が活発になり戦後急速に国力を回復し、大
王は外交努力によって努めて戦争を回避し国内統治に専念する。軍政面でもカントン制を導入し連隊ごとに徴兵
・募兵を行い、人的資源の安定保持を達成している。この様に、国内の統治に全力を注ぎ、プロイセンの発展が
成功した一因には、大王が国民の支持を得る啓蒙主義的人道主義政策を行ったからに他ならない。大王曰く「国
家第一の僕」の通り国内の学術奨励や宗教的対立の根底にあった偏見を廃し寛容的な政策をとり、拷問の禁止
を盛り込んだ司法改革と法典の編纂も行って、典型的な啓蒙専制君主となった。当時の欧州では絶対主義の専
制君主により、国民の犠牲を強いるばかりの非人間的な政策が横行していたが、17世紀後半から古い慣習に
よる弊害は社会発展の足かせとなった為、旧弊打破の思想が次第に広まりつつあった。この革新的思想は18
世紀になると顕著になり、フランスのヴォルテールやモンテスキュー、ディドロらによって編集された「百科全書」
とその支持者(百科全書派)ドイツのカント、イギリスのロックらによって確立され、人間性を尊重した立法と教育
によって社会全体を発展させていく啓蒙主義は、無知な為虐げられてきた民衆の解放を高らかに謳った。大王は
、フランスの代表的啓蒙主義思想家ヴォルテールを招いて師事を受け、宗教的非寛容を廃し、国政に合理主義
を導入し国民の底辺からの底上げを行った。また、「無憂宮の哲人」と呼ばれたように執筆活動にも専念し多くの
著書を残した。大王が即位した1740年に著した「反マキャベリ論」権謀術策の政策侵略・戦争を痛烈に批判して
いる。本来軍国主義を忌み嫌った大王がオーストリア継承戦争と七年戦争を起こした要因には、プロイセン建国
過程におけるハプスブルク家がシュレージエンの一部をプロイセンに帰属させる約束を破った事、七年戦争では
シュレージエン防衛のための国土防衛戦争で、大王は決して侵略戦争は行わなかった。

軍事学的にも、大王の偉業とその著述は多くの名将たちに影響を与えた。七年戦争後プロイセン軍に苦杯を飲ま
されたフランスでは反動で盛んに大王の斜行戦術の研究が行なわれたが、厳格な規律と訓練を要する斜行戦術
はフランスの国民性には合わないと結論付けた。逆にこの研究がフランスの国民性にあった独自のソフトウェア
を生み出す事となるが、この盛んな研究こそが他国の軍事研究を一歩リードする事になり、ナポレオンの登場を
もって完成することとなる。ナポレオン登場の舞台ともなったフランス革命は、17世紀後半から18世紀中期頃まで
に起こった啓蒙思想が背景となって達成された。フリードリヒ大王は開明的君主として啓蒙専制君主の典型とさ
れ、その後のプロイセン、ドイツ帝国の礎を築いた。



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