フランス皇帝ナポレオンT世

アウステルリッツ三帝会戦

1805年12月2日

ナポレオン皇帝戴冠後のヨーロッパ大陸


ナポレオンが1804年12月2日に皇帝に即位するとヨーロッパ大陸の諸情勢が変化する。
まず、イギリスは1802年「アミアンの和約」でフランスとの間に休戦条約を結んだが180
3年にこれを破棄しナポレオンの皇帝即位でいよいよ敵対感情をあらわにしてきた。
そしてロシアと同盟を結び、次いでオーストリアを引き入れて第三回対仏大同盟を結成す
る。オーストリアは、ナポレオンがミラノで国王に推薦されイタリア王に戴冠すると歴史的
にイタリアに大きな影響力と支配を続けてきた面目を潰され一気に第三回対仏大同盟に
参加し、フランスの同盟国ヴァイエルンのドイツ諸邦と北イタリアに二方面侵攻を開始した。
これはオーストリアと同盟を結ぶロシアの強力な支援があったからで、ロシア軍はオース
トリア軍を支援する為北ドイツ及びイタリア上陸部隊をそれぞれ派遣しまた主力はウィーン
西方ドナウ河畔に進出させる。
一方ナポレオンは対仏大同盟が結成されるとイギリス本土上陸作戦を本格的に開始しフラ
ンス海軍に出撃を命じる一方、英本土上陸作戦前にオーストリア(墺)・ロシア(露)同盟軍
を撃破し後顧の憂いを断つ事を企図した。
また、プロイセンは対仏大同盟に中立的立場を取っていたがイギリス・オーストリアの外交
工作が功を奏して諸情勢はフランスに不利だった。

ナポレオンの戦略・政略・外交
政略目的→第三回対仏大同盟の瓦解
戦略目的
対英作戦→英本土上陸作戦→ヴィルヌーブ提督率いるフランス海軍の大西洋出撃命令
対墺露同盟→英本土作戦前に各個撃破

戦略目標
対オーストリア
ロシア軍と合流前のオーストリア軍の撃破

対ロシア
時間を掛けると大量の増援部隊が到着する事が予想された為早期の決戦による撃滅
しかしオーストリア軍を各個撃破するとロシア軍の進出が緩慢になる恐れがあるので
オーストリア帝都ウィーンを占領しロシア軍をおびき出す事。

外交
軍事強国プロイセンが対仏大同盟に参加するとフランス軍は圧倒的に不利になり兼ねない
のでナポレオンはフランス占領下の英領ハノーヴァーをプロイセンに譲ると確約しプロイセン
の中立を継続させた。


オーストリア・ロシア同盟軍の状況
オーストリア軍はフェルディナンド大公率いる6万の軍勢がフランス国境付近及びヴァイエル
ンに進出しロシア軍の到着を待って攻勢に転ずる気配を見せていた。
一方イタリア方面に進出したオーストリア軍主力10万を率いるカール大公は意欲的な攻勢
をしかけていた。また北イタリアのチロル方面には、ヨハン大公率いる4万がカール大公軍
を援護していた。 ロシア軍はクトゥーゾフ将軍率いる第一軍6万をはじめ合わせて12万の
大軍でオーストリア軍支援の為西進中であった。



ウルム攻囲戦〜アウステルリッツ会戦


ウルム攻囲戦1805年10月10日〜10月20日
ナポレオンはフランス国境付近に集結中のオーストリア軍フェルディナンド公を捕捉すべく
八月下旬より行動を開始し9月24日から攻勢に転じて次々に撃破して行く。
フェルディナンド公は後退してロシア軍と合流すべきと主張したが主席幕僚のマック将軍
はウルムにてナポレオンを撃破すべきと対立し、結局フェルディナンド公は指揮を放棄し
後退する。代わって指揮をとる事になるマック将軍はウルムに留まり動かずナポレオンの
巧みな包囲機動によって完全に包囲され10月20日に3万の兵がフランス軍の軍門に下
った。マック将軍は捕虜となり、帰国後は軍法会議で禁固八年の刑を処されて軍籍を一
切剥奪された。

ナポレオンは「ウルム攻囲戦」を「予は行軍のみによってオーストリア軍を撃破した」と語っ
た様に、動かない敵に対しては正面に少数で敵主力を引き付けておいて、機動力のある
騎兵をもって退路を遮断し主力をもって敵後背に兵力を集中させ撃破する戦術だった。
マック将軍はフェルディナンド公の指摘があった様にこれまで進撃してきていきなりウルム
で動きを止める愚を犯しフランス軍の歩兵の機動戦術・包囲殲滅によって3万もの大軍が
降伏する惨劇を生んでしまった。


トラファルガー沖の海戦 10月21日
ウルム攻囲戦の終了翌日、ジブラルタル海峡西方の大西洋トラファルガー沖でネルソン
提督率いるイギリス海軍はヴィルヌーブ提督率いるフランス海軍を全滅させ大勝利を収
めた。この戦いでネルソン提督自身は戦死したが、ナポレオンは英本土上陸作戦を断念
せざろう得なかった。 ここに至りナポレオンは大陸の墺露同盟を撃破する事をを改めて
決意した。


アウステルリッツ三帝会戦1 序章〜12月2日
ロシア軍は予想通りウルムの敗戦の報を受けるとウィーン方面へ後退を始めた。これに
呼応するかのようにオーストリア軍の一部2万も後退を始め、ナポレオンはこれを猛追撃
しウィーン付近で墺露同盟軍を捕捉し決戦に臨むつもりであった。
しかし墺露同盟軍は別々に後退し帝都ウィーンへの道は完全に開放されていたのである
ナポレオンは帝都ウィーンを戦わず放棄する事は無いとみて来るべき決戦に備え主力及
び第一・第二軍団をウィーン付近に集結させる命令をすでに発してした。
しかしロシア軍のクトゥーゾフ将軍の巧みな後退は捕捉困難でありナポレオンは11月13
日にオーストリア帝国帝都ウィーンを占領入城を優先させる。。
クトゥーゾフ将軍はウィーン北方に退却したがロシア第二軍及びオーストリア軍と合流し、
今やナポレオン軍主力を上回る兵力を有するに至った。

ウルム攻囲戦以来3週間でウィーンまで600kmの高速追撃を行い将兵は疲労困憊で
攻勢限界点に達し攻守処を替えようとしていた。また、イタリア及びチロル方面に兵力を
分散していた為非常に危険な状況であった。 墺露同盟軍は今や8万の大軍に膨れ上
がりかたやナポレオン軍は疲労困憊の兵5万を有するのみである。


アウステルリッツ三帝会戦2 12月2日
11月13日ウィーン入城時の両軍の布陣は、オーストリア軍フェルディナンド公がプラハ
にありウィーンへ進軍しフランス軍第一軍がこれを牽制・阻止している。
一方北イタリア及びチロル方面のオーストリア軍主力15万がウィーン陥落の報を受け
急遽本国に帰還を開始しハプスブルク家領ハンガリー王国に兵を進めており、これをフ
ランス軍第六軍・第七軍が追撃し第三軍がウィーンへの道程に兵を配置し頭を押さえる
布陣をとっていた。 ウィーン北方200km地点にはロシア軍主力とオーストリア軍が合
流しオーストリア皇帝フランツU世とロシア皇帝アレクサンドルT世はウィーン奪還を目
論む。


アウステルリッツ三帝会戦3 12月2日
ナポレオンは優勢な墺露同盟軍がさらにロシア軍増援部隊及びイタリア方面から帰国
中のカール大公軍主力と合流する事を最も恐れていた。またプラーグのフェルディナンド
大公軍も日々態勢を整えつつあったし英領ハノーヴァーをプロイセンにいつ軍を進められ
てもおかしくない状況だった。 ここでのプロイセンの宣戦はナポレオンの撤退・敗北を意
味するからであった。
ナポレオンは諸情勢を鑑み墺露同盟軍主力フランツU世とアレクサンドルT世を撃破す
る事を最優先させる。 墺露同盟軍主力は8万5000でナポレオン軍は5万5000で疲
労困憊である為急ぎベルナドッドの第一軍とダヴーの第三軍の集結を命令する。
合流予定は12月2日で、合わせて7万5000まで兵力を回復できる。
まず増援部隊と合流を果たそうとする墺露同盟軍の進出は緩慢な為決戦場に引きずり
出す必要に迫られ、ナポレオンはアウステルリッツ郊外にある緊要地形のプラッツェン
高地を一度は占領するものの放棄し後退する。これを受けロシア皇帝アレクサンドルT
世はナポレオン軍の疲労が極限に達し士気が低下していると判断し優勢な兵力のうち
にナポレオン軍を撃滅すべしとの考えに移行する。墺露同盟軍はフランス軍のウィーン
への後退路を遮断すべく迂回機動の旋回軸となるプラッツェン高地に進出し布陣する。
ナポレオン軍の布陣をみたフランツU世とアレクサンドルT世は南翼に重大な弱点を見
出し翌日の決戦の勝利を確信するのであった。

決戦場アウステルリッツの選択、緊要地形プラッツェン高地の放棄、南翼の微弱な兵
力配置、そして12月2日という日にち全てがナポレオンの仕掛けた最大級の罠であ
った事はこの時の墺露同盟軍は知るよしも無い!





アウステルリッツ三帝会戦4 12月2日 午前五時〜
フランス皇帝戴冠より一周年の記念すべき日にナポレオンは早朝より活動を開始するが
この季節特有の濃霧によって視界不良であった。午前7頃墺露同盟軍が南翼に進撃中
なのが確認された。

一方墺露同盟軍はプラッツェン高地よりナポレオン軍の弱点南翼に突撃をかけ撃破した
後北側に旋回しウィーンへの退路を遮断し包囲殲滅を行う構想であった。
総指揮官のロシア・クトゥーゾフ元帥は、プラッツェン高地を空白にする事に難色を示した
が勝利を確信していたアレクサンドルT世は聞き入れなかった。
南翼へ向け進撃中の墺露同盟軍主力は濃霧の為混乱しプラッツェン高地の守備部隊も
同行してしまう事となる。 濃霧がある程度解消されるとテルニッツ村方向から墺露同盟
軍の激しい銃砲撃が南翼に加えられたが、これはナポレオンにとっては予測済みの事で
あった。 午前8時頃になるとプラッツェン高地の守備が手薄になったのを確認すると、ナ
ポレオンは第四軍スルト元帥にこの高地への突撃命令を下し第一・第五・騎兵集団が高
地北側に攻勢をかけスルト元帥のプラッツェン高地奪取の強力な援護を行った。
この頃墺露同盟軍主力は南翼のナポレオン軍の後方に駆けつけたばかりで濃霧で隠さ
れていた第三軍の攻勢で膠着状態に陥っていた。
一方北翼のロシア・バグラチオン軍とランヌの第五軍が激戦を展開中であった。
戦局の焦点はこのプラッツェン高地の如何に全てが掛かっていた。


両軍の兵力配備状況
ナポレオン軍
墺露同盟軍
総兵力
5万5000+2万
8万5000
北翼
ランヌ第5軍 5000 
バグラチオン軍 5000
プラッツェン高地
主力・スルト第4軍 6万
本陣 クツゥーゾフ元帥 4万
南翼
ダヴー第3軍 1万
主力 4万





アウステルリッツ三帝会戦4 12月2日 午前十時〜
ナポレオン軍は手薄になったプラッツェン高地に殺到し午前十時ごろ一時占領するもの
のクトゥーゾフ元帥が一部の部隊を救援に差し向けて奪回を命じる。
ナポレオンもベルナドット第一軍を増援に向けて攻勢をかけるが、ここに至りようやくこの
丘の重要性に気づいたアレクサンドルT世は、自らの精鋭近衛軍を急派し奪回と確保を
命じるが時すでに遅くナポレオンの総予備、近衛騎兵の投入によってプラッツェン高地の
趨勢は完全にナポレオンの手に渡る。 午後2時頃であった


プラッツェン高地を完全占領したナポレオン軍は南翼の墺露同盟軍を三方向より包囲し
撃滅し敗残兵は南方のザッチャン池より敗走し重みに耐え切れず氷がわれ多数のロシ
ア兵が溺死した。
ナポレオン軍は約7000名の死傷者出したに過ぎなかったが墺露同盟軍は実に3万名
以上もの死傷者と捕虜を出して、アウステルリッツ三帝会戦はナポレオンの完全勝利で
幕を閉じた。

ナポレオンは味方に弱点を作り敵がそこを攻撃する事を見越してプラッツェン高地に突撃
し中央突破を計り敵の布陣を完全に崩したのである。 この会戦後プロイセンは、対仏大
同盟に参加せず、ナポレオンに会戦勝利の祝辞を贈った。

第3回対仏大同盟というナポレオン包囲網が形成される状況下で巧みな外交戦略でプロ
イセンを中立化し、ウルム攻囲戦の大勝利後、攻勢限界点に達し圧倒的劣勢の中をわざ
と緊要地形を与えて油断させると、12月2日の味方合流を待って皇帝戴冠記念日に大勝
利を収めた戦略・戦術の妙はまさに芸術的としか言いようがない。 この会戦後ブレスブル
グ条約でオーストリアは屈服し十世紀以来の神聖ローマ帝国は事実上終焉しナポレオン
帝国はこれ以後拡大し最盛期を迎える事になる。


1812年フランス最大版図


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