「ナポレオンの戴冠式」 
ダヴィッド作 ルーブル美術館蔵



[誕生〜幼年期]
1768年8月15日ジェノバ(伊)はコルシカ島をフランスに売却
1769年8月15日コルシカ島にトスカーナ系下級貴族のボナパルト家に第四子と
して出生。 1778年にはフランスに渡り翌年にはフランス・ブリエンヌの陸軍幼年
学校に入学し84年に卒業、パリ士官学校を開校以来最速の1年で卒業する。
85年に卒業後少尉任官しヴァランスのラ・フェール砲兵連隊に配属。弱冠16歳


[フランス革命 1789年7月14日]
当時のフランスはブルボン王朝の下で絶対王政が敷かれ第三身分の平民は政治
的権利が虐げられてきた為自ら国民議会を開催しようとしたが国王と宮廷貴族に
武力弾圧されるに至ると政治犯の象徴でもあるバスティーユ監獄をパリ民衆が7月
14日早朝に襲撃し革命の口火がきられた。 91年に国王ルイ16世がヴァレンヌ
にて国外逃亡が発覚逮捕され翌年には民衆がテュイルリーのルイ16世を襲撃し
王権を打倒し93年には裁判ののち処刑する。 ここに至り当時ヨーロッパの絶対
専制君主体制を堅持している強大な諸外国は自由市民革命の理念が自国に波及
する事を恐れ相次いでフランスへ侵攻する事になる。 フランス革命を成就する為
自由市民は自ら武器を手に取り自由と祖国を諸外国から守る為立ち上がった。


[フランス革命下での若きナポレオン]
革命後のナポレオンは91年に革命政治結社ジャコバン・クラブに入会した一方で
本国での騒乱が拡大していけば、コルシカ島がフランスから独立する絶好の好機
と考えていたが、コルシカ独立運動の指導者パオリと対立するうちにフランス軍内
での活躍の場を見出し革命政府の国民議会に反抗したパオリを討伐する為討伐
軍砲兵隊長として参戦しフランス革命へ傾倒していく。

1793年にはトゥーロン攻囲戦で卓越した砲兵の指揮が認められ少佐に昇進し、
トゥーロン港よりイギリス・スペイン艦隊を排除し勝利すると、異例の3階級昇進し
准将となり将軍の地位に登りつめる。

1794年革命政府内ジャコバン派のロベスピエールらが失脚するとその追及が、
ナポレオン自身にも及び拘束され将軍職を解任されてしまう。
95年にはイギリスに支援された王党派が革命派に対し攻撃を仕掛けたが、ナポ
レオンは再び鎮圧に抜擢され成功し国内軍司令官職に就く。96年にはイタリア
方面軍司令官としてローディー(5月10日)・カスティリオーネ(8月5日)・アルコー
レ(11月17日)・マントヴァ要塞攻略(〜1797年2月2日)の各戦闘において、
オーストリア軍を撃破しカンポ・フォルミオ条約で和平を回復させた。
98年には対英作戦のエジプト遠征で「ピラミッドの戦い」に勝利したが、第二次
対仏大同盟が結成されフランス本国が危機に曝されると99年10月にはフランス
本国に帰国した。


[権力を手中に収めたナポレオン]
ナポレオン帰国後はジャコバン派失脚後の実権を掌握していた総裁政府が内部
分裂し一部が王党派と王政復古の計画を開始した為、ナポレオンは総裁政府に
対し11月9日(ブリュメール18日)にクーデターを仕掛け成功し、ここに自ら第一
統領となり統領政府を樹立する。

1800年には再びイタリアのオーストリア軍を撃滅すべく戦略奇襲のアルプス越え
でマレンゴ会戦に勝利し改めてリュネビル条約を締結させイタリアにおけるオース
トリア支配を終らせる。 1802年にはイギリスとの和平条約「アミアンの和約」が
締結され束の間の休戦が訪れる。またローマ法王との政教和約(コンコルダート)
にも成功し8月には国民投票により圧倒的支持で終身統領となる。


[フランス皇帝ナポレオンT世]
1804年に再び国民投票により圧倒的支持でナポレオンはフランス皇帝に選出
され12月の2日にノートル・ダム寺院で戴冠式を行った。

1805年、その間イギリスは対仏外交を展開し遂にオーストリアは再びナポレオン
に反抗した。ナポレオンはここにいたりイギリス本土上陸作戦を決意し大陸軍を集
結させると共にウルムにてオーストリア軍を包囲撃滅させ後顧の憂いを断った。
しかし上陸作戦に不可欠な海軍がトラファルガー海戦にてイギリスのネルソン提督
に完敗しイギリス本土上陸作戦は中止された。ウルムでの大勝利後に敗戦を知っ
たナポレオンはきびすを返してオーストリア軍とロシア軍の合流を阻止すべく追撃に
移った。 ナポレオンは自らの戴冠式一周年にあたる12月2日にオーストリア皇帝
フランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世の連合軍と交戦し未曾有の大勝利を
収めた。これが「アウステルリッツ三帝会戦」である。 ブレスブルク条約によって、
ヨーロッパ大陸に永きに渡り君臨し続けたオーストリア・ハプスブルク家神聖ローマ
帝国は大きく領土を割譲し翌年のライン同盟によって神聖ローマ帝国は終焉した。
オーストリアは一帝国に領土を大きく失うかたちとなった。

1806年には神聖ローマ帝国の解体によってドイツ領の帰属問題が発生しナポレ
オンは北ドイツの軍事大国プロイセンに遠征し「イエナ」「アウエルシュタット」にて
相次いでプロイセン軍を撃破しベルリンに入場を果たし、07年には「アイラウ」「フリ
ーラント」の戦いにも勝利し遂にはティルジット条約によりプロイセン・ロシアを完全
に屈服させた。 また、この年にベルリン勅令、翌07年にミラノ勅令を発して対英
経済封鎖を強化させた。 


[斜陽の兆候]
1808年に入ると対英作戦の関係からスペインに軍事介入したが一進一退で12
年までにイギリス軍のウェリントン卿をポルトガル領に追いやるのが精一杯だった。

1809年にはスペインでのフランス軍が苦戦しているとその機に乗じてオーストリア
が三度フランス軍に反抗しナポレオンは、オーストリア軍31万をワグラムの会戦で
撃破し、ウィーン和約でオーストリアはまたも屈服し広大な領土を失う事になる。

1810年にオーストリア・ハプスブルク家皇女を后に迎え入れたがこれにロシアが
反発しナポレオンの対英外交の根幹「大陸封鎖令」の脱退を公言し関係が急速に
悪化、12年にナポレオンは50万の大陸軍を率いてロシア遠征を開始する。
しかしロシア軍は計画的退却戦(焦土作戦)を行い現地調達のナポレオン軍を苦し
めて冬の到来と共にナポレオンは命からがらフランスへと帰国するに至る。


[奇跡の帰還と落日]
ロシア遠征で壊滅的打撃を被ったフランス軍は徴兵制度を改定し軍の再建に全力
を尽くした。 しかし情勢は対仏へと向かっておりナポレオンはこれを打破すべくロシ
ア・プロイセンに再び赴く事となる。1813年5月にはリュッツェンの戦い、バウツェン
の戦いでロシア・プロイセン連合軍を相次いで撃破。8月にはドレスデンの戦いで撃
破するものの決定的勝利を得られず10月のライプツィヒの戦いに大敗を喫し大勢は
は決した。 14年には連合軍はパリ入城を果たし4月にはナポレオンはエルバ島に
流刑となった。 15年3月にはエルバ島を脱出しパリに帰還しプロイセン軍を撃破し
た後6月にはワーテルロー会戦にてイギリス・ウェリントン卿に大敗を喫し「百日天下」
は終焉しナポレオンは大西洋の孤島セント・ヘレナ島へ流され波瀾の生涯閉じた。

1821年5月5日永眠



若き日のナポレオン


[軍事学上の天才]
ナポレオンの登場は戦史上でも軍事学的にも大変革をもたらしたのみならず後世
の軍事史に多大な影響を及ぼした。

(フランス革命以前)
フランス革命以前即ちナポレオンの登場以前のヨーロッパは神聖ローマ帝国・オー
ストリア・ハプスブルク家を筆頭にブルボン朝フランス、ロマノフ朝ロシア、産業革命
を開始したイギリス、軍事大国に台頭したプロイセン等列強がそれぞれ絶対王政を
しいて覇権を争っていた。 しかし戦争となるとそれぞれ国力にあった傭兵と農奴か
らなる軍隊を構成したが、当時の傭兵は高価で運用には莫大な資金が必要となり
結果直接的敵勢力の撃滅は極力避け、巧みな機動で敵の後方連絡線を断ち戦意
を喪失させる事と外交的孤立を計る政治的戦略に主眼が置かれた。



フランス革命以前のヨーロッパ大陸



フランス革命前
フランス革命後
政治体制
絶対専制君主制
自由主義政府(フランス)
軍隊
貴族・騎士・傭兵・農奴
国民(自由市民)
兵の士気
傭兵=金次第 農奴=士気低下
革命の成功 祖国防衛
司令官
国王・王族・上級貴族
軍事専門家(能力主義)
戦略
制限戦争・間接消耗戦略
絶対戦争・直接撃滅戦略
戦術
厳格な規律の横隊
縦隊と横隊と散兵のミックス型
補給
策源より2〜3日の範囲
現地調達


(フランス革命後)
国民軍の誕生
フランス革命が勃発すると国王ルイ16世は王妃マリー・アントワネットの実家オース
トリア・ハプスブルク家に救援を求め国外に逃亡を図るが返って事態を悪化させ、断
頭台の露と消えると他の絶対王制諸国は自国に革命の余波が波及する事を恐れ、
こぞって干渉しフランスに侵攻を始めた。革命達成の為自由市民は自ら武器を取り列
強からフランスの祖国と自由を守らなければならなくなった。
これが戦史上での「国民軍」の誕生である。フランスの国民軍は他の諸国の傭兵・農
奴中心の軍隊とは違い、給料や食料が滞っても自らの意思と祖国防衛の理念に燃え
ており士気は旺盛であった。これは国民による国民の為の軍隊であって他の諸国の、
軍隊とは明らかに違っていた。徴兵制によって大量の補充が可能となり戦闘によって
消耗する事を恐れる必要が無くなったのである。


革命対絶対王制
高価な傭兵の消耗を考え戦闘を極力回避してきた旧来の「制限戦争」ではなくお互
いの政治体制そのものを打倒する事を迫られたのがフランス革命後の戦争である。
ここに至り戦争の形態が激変し直接相手の撃滅を狙う「絶対戦争」へと移行し戦略
思想も直接戦略となって行く。士気旺盛で大量補充可能な国民軍は行動の自由と
ナポレオンの登場で旧来の傭兵中心の軍隊を次々に撃滅していく事となる。


制限戦争
絶対戦争
戦略目的
外交交渉の有利化
敵軍事力の無力化
戦略目標
決戦の回避 国境付近の争奪
決戦主義 敵国首都攻略



ナポレオンの登場
旧来の軍隊では銃砲の発達により火力を前面に集中出来る密集横隊戦術が主流
で極限にまで達した横隊戦術は起伏のある戦場での指揮・運用する事は容易では
なかった。その為軍隊の指揮者は厳格な規律をもって厳しい訓練を施し歩兵の後方
には下士官を置いて離反する傭兵や敵前逃亡する者を容赦無く射殺した。
プロイセンを軍事強国にのし上げたフリードリッヒ大王は「兵をして敵よりも下士官の
鞭を恐れしめよ」の言葉どおり真の忠誠心を欠く傭兵と農奴にはおのずと限界があ
った。 しかし祖国防衛の理念に燃える士気旺盛な国民軍にはこの様な逃亡の恐
れが無い為自由な行動、戦術をとる事が可能となる。先のアメリカ独立戦争(1775
〜)でいよいよ注目され始めた散開した歩兵による自由な射撃、散兵戦術は旧来の
軍隊では絶対に採用不可能な戦術の一つである。 国民軍と散兵戦術、敵の弱点
に兵力を集中させる縦隊戦術を駆使し、ナポレオンの天才的戦略・戦術と相まって
これ以降ヨーロッパ大陸を席巻していく事となる。


ナポレオンの戦略
ナポレオンは皇帝となって政略と戦略を一手に指導出来る立場になると、外交交渉
を巧みに操作し敵対国同士を団結させずに、また戦力の整わないうちに戦場に引き
ずり出してそれぞれを別個に各戦場で各個撃破していった。この様にナポレオンは、
政略と軍事的戦略を巧みに調和させ自らの勝利を演出していったのである。


ナポレオンの戦術
[師団]
ナポレオンは旧来の軍隊とは明らかに違う国民軍の特長を最大限に活かす事が出
来た最初の人物であり、彼はこの国民軍を分割(division)して師団(division)とし、
分かれて進撃し合流して攻撃する「分進合撃」という極めて高い機動性を発揮出来
る戦術で敵よりも機先を制する事が常であった。

[縦隊]
また、旧来の密集横隊戦術は極限にまで横長になっており戦場での指揮・統制は
非常に困難を伴なっていた。当時の横隊戦術は分速70歩が標準だったが、ナポレ
オン軍は120歩と高速であった為戦場で敵よりも優位に立てた。これは、機動性に
優れた縦隊戦術で敵の弱点に素早く兵力の集中を投入する事を可能とした。

[散兵]
先のアメリカ独立戦争でフランスはアメリカを支援し横隊戦術にある程度効果を発揮
した散兵戦術を理解しえる立場にあり、ナポレオンはいち早く注目し導入した。 
散兵戦術とは横隊の前面に散開し遮蔽物に隠蔽し自らの判断で自由に射撃する
戦術で、敵横隊前面に小銃火力を浴びせ敵が混乱し弱点を曝け出すと縦隊の突撃
を行い絶大な効果を上げた。

[横隊]
古代ギリシャの密集方陣「ファランクス」を研究・進化させプロイセンを軍事強国に押
し上げたフリードリッヒ大王が極限の縦深3列(人)横長の陣形で火力を前面に集中
出来る最大の特長があった。その反面指揮・統制は困難が生じ側面への敵、戦場
での機動性にやや欠点があった。 また敵陣を撃ち破る衝撃力という点でも決定力
を欠いたが当時のヨーロッパ諸国は横隊戦術が主流で銃砲の発達により絶大な火
力を有した。

[オーダーミックス戦術]
フランスは、七年戦争でフリードリッヒ大王の卓越した横隊戦術に翻弄された結果、
横隊戦術の弱点の研究が盛んに行われ、新しい戦術の確立が望まれる土壌はナポ
レオンの登場に合わせて整いつつあった。また、アメリカ独立戦争で横隊戦術の英
国軍がアメリカ民兵の散兵戦術に苦戦した事は、アメリカを支援したフランスがその
効果を知りえた事もナポレオンには幸いした。こうしてフランス革命によって愛国心溢
れる国民軍が誕生すると旧来の政治体制では絶対採用不可能な散兵戦術で敵を
混乱におとしいれ、横隊の火力で敵を粉砕し、その弱点に縦隊の衝撃力を集中投入
する戦術をナポレオンは多用し彼の名を世界史史上に不滅の光芒で飾る事となるの
である。







NapoleonT TOPへ


アウステルリッツ三帝会戦へ


[HOMEへ戻る] [HyperArmsTOPへ]