| エルウィン・ロンメル ドイツ国防軍元帥 | |
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ERWIN・ROMMEL 1891年〜1944 ハイデンハイム生まれ ドイツ国防軍元帥 |
ロンメル将軍は私が最も尊敬に値する軍人である。彼は常に前線に立ち 敵味方より神出鬼没な戦いで畏敬の念を込めてこう呼ばれた「砂漠の狐」 彼が同時期の軍人と明らかに違うのは劣勢な状況の中で圧倒的な物資 量を誇る英米軍を翻弄し敗退させた手腕である。アイゼンハワーもパットン 将軍もモントゴメリー英将軍も本国の生産力に裏打ちされた物量作戦が功 を奏してドイツ軍を撃退させたが、ロンメル将軍はドイツ本国よりの補給を 制限された中での戦闘を余儀なくされた事実。 また彼の戦術手腕は戦後 の研究者が口を揃えて評価しているが彼の偉大なところは、戦場での人道 的騎士道精神を貫いた点を忘れてはならない。彼はユダヤ人を差別しなか ったし、戦場で兵員・兵器を火力で撃滅するハードキルよりも高機動な戦術 で敵の側背を突き無力化させるソフトキル的戦術を多用しているロンメル将 軍は捕虜を人道的に扱い、時には作戦に支障をきたしたが、最後までそれ を貫き通したそれが敵国大英帝国宰相チャーチルをして「ロンメルは聖者」 と言わしめた。 |
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[誕生〜幼年期] 彼は1891年11月15日にドナウ河畔に近いウルム市郊外に生まれる。 代々教師の家系で父は学校長。1910年に士官候補生として連隊に入 隊し翌年ダンツィヒ士官学校に入学、1912年にヴェルテンブルク第124 歩兵連隊に少尉任官。 [第一次世界大戦] 彼は小隊長としてフランス戦線方面で活躍。1915年には一級鉄十字章 を授与され中尉に昇進。その後ヴェルテンブルク山岳猟兵大隊に転属し ルーマニア及び北イタリア戦線で活躍。1917年にイタリアのカポレット要 塞をわずか一個中隊を率いて攻略し一個師団を撃退させる。この功によ り帝政ドイツ最高勲章の「プール・ル・メリット」を授与され大尉に昇進。 [戦後〜] 1918年に終戦を迎えワイマール共和国では保安部隊で勤務、その後は シュトゥットガルト歩兵連隊の中隊長として8年間勤務する。 1929年にドレスデン歩兵学校の戦術教官勤務、「歩兵の攻撃」を執筆 1933年にはゴスラー駐屯第17歩兵連隊猟兵大隊長勤務。少佐に昇進 し翌年ヒトラーに対面する。 1935年ポツダム兵学校教官職に就き大佐 に昇進、1938年にはノイシュタット士官学校長となり翌年少将に昇進。 [第二次世界大戦] 1940年2月第15装甲軍団主力第7機甲師団長に就任、西方戦線攻略 に貢献する。1941年中将に昇進しドイツ・アフリカ軍団司令官に就任。 8月には大将に昇進しアフリカ機甲軍司令官拝命。 1942年6月にはトゥブルク要塞攻略の功により元帥に叙される。 7月には英軍をエジプト領エル・アラメインに追い詰めるが9月に病気の為 一時帰国。1943年に再び病気の為アフリカを去る。 1944年にはフランス方面B軍集団司令官に就任し連合軍上陸作戦阻止 の任に就く。7月に英軍戦闘機の攻撃を受け重傷を負う。7月20日に起き たヒトラー暗殺未遂事件に関与した疑いで10月14日に服毒自殺を強要 される。 |
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| ヨーロッパ西部戦線 | |
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| 1940/5/10〜西部戦線侵攻作戦 5/10作戦開始 5/12第七機甲師団ロンメルはフランス軍主力第一軍集団(25個師団)及び 第九軍(10個師団)を突破しディナンに進出。 5/17カンブレーに進出し占拠 5/21仏軍総司令官ウェイガンはドイツ軍に対する総反撃作戦を決行。 英海外派遣軍総司令官ゴート卿によりロンメルの第七機甲師団側面に 対して機甲部隊を投入しフランス国境に連合軍の連結を企図する。 英機甲部隊はフランス国境方面に16kmドイツ軍戦線に進出したが、 ロンメルはこの攻撃を直接指揮し撃退に成功。 このウェイガンの作戦は北の英軍と南のフランス軍を連結させ突出しす ぎたドイツ軍機甲部隊を孤立させようとしたものだった。 成功すればカレー方面に西進しつつあったドイツ軍機甲部隊は側面を つかれ背後を遮断されたが、結局フランス軍は部隊の到着がおくれ英軍 のみで決行された。しかし連合軍の唯一の大規模な反撃作戦でこの攻 撃を失敗に終わらせたのはロンメル機甲師団の奮戦によるところが大き い。ロンメルは完全に側面を衝かれたが88mm砲を効果的に英機甲部 隊に浴びせ航空支援要請・機甲部隊を反転させ撃退に成功。 英海外派遣軍総司令官ゴート卿はこの作戦の失敗でダンケルクよりの 全軍撤退を決意する。 5/22アラスを突破しダンケルク南へ進撃を開始する。 |
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| 北アフリカ戦線 | |
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| 1941/2/3〜 2/ 3 ロンメル、ドイツ・アフリカ軍団司令官に就任 2/12 ロンメル少将トリポリに到着 3/31 ロンメルはキレナイカ(ベンガジ東方)へ進出しトゥブルクを包囲し エジプト国境にせまる。 6/15 チャーチルは地中海経由で戦車300両を英軍に補給し「バトルア クス作戦」を発動させる。2日後作戦は失敗に終わる。 11/18 英軍オーキンレック司令官、「クルーセイダー作戦」を開始 当初ロンメルは優位に戦局を進めたが結局一時的にキレナイカ より後退する。 1942/1〜 1/ 5 本国より補給船団が到着 20 ロンメル、英軍に大攻勢をかける。 29 ベンガジを再占領。 5/26 トゥブルク攻略作戦開始 5/31 緊要拠点、大釜陣地占領 6/20 北アフリカ戦略拠点トゥブルク要塞を陥落させる。 6/22 ロンメル、元帥に叙される。 7/ 1 ロンメル元帥、エル・アラメインへ攻勢に出るも失敗 10/23 英軍の大反抗作戦開始 「ライトフット作戦」 11/ 1 英軍「スーパーチャージ作戦」を発動 ロンメル軍後退する。 8 米軍アイゼンハワーが北アフリカ、アルジェリア方面に上陸 「トーチ作戦」 1943/2〜 2/〜 ドイツ・アフリカ軍集団チェニジア方面に撤退する。 3/ 9 ロンメル元帥、アフリカを去る。 |
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「砂漠の狐」 ロンメル元帥はプライベートで狐を飼っていた事よりこう称され たが、彼の高機動戦より次第に伝説と化していった。 彼は好機と判断したならば本国統帥部に反してでも攻勢に移った。 常に前線で指揮をとったので英軍よりも数段早く行動を開始でき、結果劣勢 の中でも敵を撃破する事が可能になった。ロンメルは戦場での観察力・洞察 力・判断力・決断力・勇気が敵指揮官を完全に凌駕していた事は現代の評価 でも疑いは無い。 しかしながらアフリカでの敗退は1に本国よりの補給面が 失敗した事。2に英軍マルタ島の攻略をドイツ軍が失敗した事。3にドイツ・ア フリカ軍団及びイタリア軍の指揮系統がロンメルに完全に帰属していなかった 点。肯定否定もしないがロンメル自身が北アフリカ戦線後期に戦場を離れた 事は色々諸説あるが2年半戦場としては最も過酷な砂漠で指揮をとっていた 事実を考慮すると致し方ない。 最後にロンメルの暗部、ヒトラーとの関係である。 ロンメルは貴族(ユンカー) 出身では無いのに異例の昇進を遂げた。これは第一次世界大戦後のヒトラー との親交が深い関係を持っている。 ロンメルはヒトラーの総統前方司令部の 護衛隊長を務めた経緯がある。つまりヒトラーのお気に入りだった訳でフランス 侵攻作戦での機甲師団長へ大抜擢される。しかしロンメルは人種差別主義者 ではなかったし、ヒトラーの様に部下に対して過酷な要求はしなかった。 逆にヒトラーに対してユダヤ人救命の嘆願をした事さえあった。戦争後期には ヒトラーに見切りをつけヒトラー暗殺計画の中心的存在になる。 そして、本当に最後にロンメル元帥は北アフリカ戦線で英軍を駆逐した後に当 時東部戦線(ロシア)で苦戦していたドイツ軍を、中東よりコーカサスへ進撃し 支援出来るとヒトラーに進言したが受け入れられなかった。 北アフリカのロンメルに1個機甲師団を送るだけでこの構想は実現したというの が現在の評価である。 |
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