気がつけば21世紀

 
 
  
平成13年元旦の四国4県紙社説を読む
 
 
 四国4県の県紙の元旦社説を読んだ。
 
 『四国新聞』(高松市)の社説が出色だった。
 地球資源を平和のうちに分ち合う術
すべを論じて「限りある資源をいかに有効に平和裏に利用し、また再利用できるかという大実験」の時代として江戸時代をとらえ、「ほぼ完全なリサイクル国家」を実現した、と評価する。
 そしてまた、讃岐人の水不足克服の知恵を省み「郷土の先人が共生による解決への知恵を示してくれた」と総括する。
 歴史に学ぶとはまさにこういうことを言うのだ。
 
 四国には、各県それぞれに県紙がある。約420万人の四国人のために、地方紙が4つもあるのだが、お互いがテリトリー分けをしているから、個々の住民にとってみれば地方紙は1つしかない。4紙すべてが購入できる売店といえば、コラム子の知るかぎりJR高松駅のキオスクしかない。
 
 四国4紙の社説を比較して論ずる「四国論壇」のようなものがあればと思うのだが、寡聞にして知らず。
 そこで、わがコラムで批評を繰り広げたい。
 
 4紙の元旦号1面を見てみよう。
 
 『愛媛新聞』は霊峰石鎚山
いしづちさんの航空写真を掲げている。
 《荘厳な石鎚山、青い瀬戸内海が広がる愛媛の原風景》。
 第49回愛媛新聞賞の発表があった。文化部門の賞がイラストレーター・エッセイストの
真鍋 博まなべ・ひろし氏に贈られた。
 
 『高知新聞』は、ライトアップされた高知城。
《新世紀スタートの2001年は、高知城の築城から数えてちょうど400年。記念行事の幕開けを告げるセレモニーが、世紀越えの大みそか深夜から元日未明にかけて繰り広げられ、ライトアップされた高知公園は大勢の市民でにぎわい、歴史を刻む古城で新世紀の幕開けに立ち会った。》
 すがすがしい土佐の元旦だ。
 
 『徳島新聞』は、「とくしまカウントダウン2001」で、2001個の風船を夜空に飛ばす若い世代の姿。新町橋たもと公園の新年風景だ。「活力ある社会再構成へ」と見出しを掲げる。
 
 そして『四国新聞』。
 「こんにちは ボクらの世紀」。香川の115人の子どもたちの笑顔と手のひらが新世紀を開いた。
《写真からはみ出した子もいるが、みんな笑顔だったことは保証する。この中には11
国25人の外国籍の子供たちがいる。》
《地球はすでに人で満ち、人は資源の限りを知り、戦うむなしさ、環境のもろさを知った。この笑顔を永遠にという願いは平凡だが、まだ実現していない。それを忘れないために115人の子供は集まった。私たちは地球人である。》
 
 かねてより思っているのだが、四国新聞は四国4紙のなかで最もバランスがとれた新聞ではなかろうか。
 元旦号も、私たちのすぐそばにある「地球人の笑顔」を礼讃しつつ、先人たちの労苦と知恵に慈しみを注いでいる。社説はこう論じている。
私たち讃岐人は…過去1200年にわたって水不足に悩まされ続けながら、知恵でそれを克服し、破滅的な争いをすることもなく、少ない水を分かち合って豊かな田園地帯を実現してきた。これもまさに現代の地球が求める「共生の知恵」だったといえる。
 地方のあり方を見据えるところから、国や地球の問題を論じる。地方紙のあり方の1つの鑑
かがみだと思う。
 
 旧景が闇を脱ぎゆく大旦
おほあした   中村草田男くさたお
 俳句王国らしく、草田男の句で始まる愛媛新聞の元旦社説。
 地球温暖化への警鐘を鳴らし、20世紀を「環境
破壊の世紀」と総括する。一見真っ当なようだが、この歴史観にコラム子は寂しいものを感じる。
 
 愛媛は、四国の中で最も工業の発達した地域で、さまざまの公害にも悩んだ。宇摩
うま地方の製紙業のヘドロ、煙害の四阪島しさかじまなど。もっとも深刻だったのは昭和40年代だ。瀬戸内海はこのまま死の海と化してしまうのではないかと、本気で危ぶまれていたのだ。
 
悲しい犠牲もあったが、幾多の人々の弛みない努力で、環境はみごとに改善された。青い瀬戸内海が戻ったのは、愛媛人の頑張りの賜物でもあるのだ。愛媛人の心を代弁すべき県紙であれば、そういうところにも思いを致してほしかった。
 愛媛県西宇和郡の四国電力・伊方原発があることで、二酸化炭素排出の削減に愛媛県は大きく貢献している。そのこともまた素直に評価すべきではないか。
 
 ところが愛媛新聞は、現代日本の典型的マスコミよろしく、安易な論説に走るのだ。
《原発を救世主と見る世論も明らかに退潮を始めた。何世紀も先まで重い負担をしいる原発よりも、太陽や風力、水素、バイオマスなど21世紀型エネルギーの活用と開発にこそ英知の結集が望まれる。》
 反原発に媚びるのは結構だが、たとえば10年以内に原発を全廃しようとして、これを太陽光・風力やバイオマスでまかなおうとすれば、いったいどれだけのコストがかかり、日本経済がどれだけ破滅的な打撃を受けるか、愛媛新聞の論説委員はまじめに勉強したことがあるのだろうか。
 新エネルギーの開発に努力しなければならないのは言うまでもない。しかし、地方紙の側も、客観的現実を忘れずに論陣を張ってほしいのだ。
 
 徳島新聞も、社説で環境問題を論じている。
《新環境基本計画が昨年末、閣議決定された。省エネを進める上で、環境税など経済的手法が有効だと強調している。》
実効ある温暖化防止策を進めるためには、国民も相応の負担をしなければならない。税という経済的負担もあるし、今の快適さをある程度我慢する形での負担もある。いかに負担から逃れるかではなく、温暖化を防ぐためにどのように負担すべきか、みんなで知恵を絞ろう。
 
 自己責任をしっかりと論じた徳島新聞はさすがだ。何しろ、徳島新聞は地方紙のなかでも日本一の地域シェアを誇る地域独占企業だ。しっかりしていてもらわねば、徳島県が危なくなる。
 
 高知新聞社説は、他の3紙とは対照的に「自由」をキーワードに論じている。
 平成12年9月に高知県議会が県のモットー、即ち「県詞」を全会一致で制定した。
 「自由は土佐の山間より」
《言うまでもなくこの言葉は、立志社機関誌に寄せた植木枝盛
うえき・えもりの文章に由来し、自由民権運動発祥の地である土佐を象徴する。》
 「県詞」制定というのは、全国初の試みだそうだ。
 
 「自由」が強調されすぎて、もろもろの事件が起き、学校崩壊が起きている昨今、なんでまた敢えて「自由」を唱道するのだろうか。
 
《「おまかせ民主主義」を脱するには、個人の参加と決定の機会を保障する必要がある。》
《欧米では学校運営で、人事権、予算権への保護者の関与や子供の意見表明権を認める動きが増えている。単に意見を聞き置く式の日本のPTAとは理念が異なる。こうした思想を他の分野へ広げていけば、社会の内実も変わってくる。》
《民主政治は個人の自由な判断と自主的行動を前提にしている。この人権の拡張と社会の発展をどう調和させていくか。民権運動の精神は、新世紀のスタート台に立った県民一人ひとりに、この命題を深く、静かに問い掛けている。》
 
 つきつめて言えば、自分たちの行動とその結果に責任をもつ個人があってはじめて、「自由」も存在しうるということではないか。
 学校の運営に保護者や「子供の意見表明」が関わってくるとするならば、それは世間の常識を弁
わきまえた良識ある保護者たちでなければならない。国立市の小学校のように、日教組の教師のロボットにされた児童たちに「意見表明」をされてはたまらない。
 
 高知市や高松市の成人式の醜態が、全国民の嘲笑の的になってしまった。
「自由」に先立つべきものが何なのか。本来あたりまえのことをあえて語らねばならない時代なのだが、高知新聞はそこまで思い至っていただろうか。 
 
 四国に4つの県があり、4つの県紙がある。なんとすばらしいことだろう。
 願わくは、この4県紙が、時として論を競い合わんことを。さもなくば、4つの県紙並存の意味はない。1つの強力な四国ブロック紙があればよいのだ。

(平成13年1月14日)
 
 
  平成13年元旦の在京紙社説を読む
 
 
《米国は国全体に能力主義を適用したためモノ作りが衰退し、
日本は平等主義一本だったため創造的な仕事が弱くなり、画期的な基礎技術開発にも成功しなかった。》
 日本経済新聞の元旦社説が、三和総研エコノミストの言を紹介している。
 そうだ、能力主義と平等主義の2つの原理を融通無碍に使い分けることで、きっと21世紀の日本は伸びると思う。
  
 在京各紙の元旦社説を読んだ。
 「元気な日本をめざそう」(読売新聞)、「悲観主義からの決別」(日本経済新聞)、「向かい風を生かそう」(東京新聞)。時代を鼓舞しようという意気込みが感じられた。
 
 時代を的確に総括してくれたのが日経の社説。
《確かに平等主義は結果平等まで至ったことで行きすぎた。だが、20世紀全体を通じて日本の産業に成功をもたらしたのは、平等主義であり、それが20世紀型の規格大量生産技術にうまく適合していた。新世紀の主流となる知識・情報集約型の経済・社会で日本が競争優位を確保するためには、結果平等主義を大幅に修正する必要がある。》
 
 高齢化社会への対応や環境保全技術の開発を、フロンティアとして掲げている。
 昭和末期から平成1桁は、科学技術への不信が世の中を蔽った時代のような気がする。しかし、時代精神はいま一変しつつあるのではないか。情報技術とロボット、遺伝子組換え、超微細技術(ナノテクノロジー)。技術革新が我々の人生を豊かにしていく予感がするではないか。
 その意味で、日経の元旦号トップの「技術創世紀」という新年連載企画は、まことに当を得ている。
 
 毎日新聞の北村主筆の1面論説はみごとだった。
 
《戦後半世紀にわたる「追いつき、追い越せ」の目標が達成された後、
私たちは政府や政治家に向かって「われに新たなる目的を与えよ」と叫び続けてきたようなものではなかったか公共事業や福祉のばらまきをもたらしたおねだり精神に加えて、生きがいまでをお上に求める心情は、前の世紀においてこよう。》
 
 政治を批評したことのある人には、ずしりと響く言葉ではないだろうか。
 
 さて、「われに新たなる目的を与えよ」と叫び続ける社説も健在だ。
 
《日本の政治はまことにおぼつかない。内向きの状況対応ばかりが目立ち、広い視野や、構想力をまったく欠く。(中略)エンジンを動かすことには懸命だが、どこへ向かうかという肝心のことに英知を尽くそうとしない。(中略)私たちとしてはせめて、指導力がなく、「変革」への明るい展望を示せない政治には、選挙のたびに「ノー」を突き付け続けることで志を示したい。》
 
 「志」とは、もっと前向きで建設的な思いを指す言葉だと思うのだが、この新聞は選挙で「ノー」ということで「志」を示すのだそうだ。これが元旦社説の結びだというのだから、朝日新聞はずいぶんと寂しい。
 
 朝日新聞の元旦号トップを飾った新年連載企画は、「日本の予感」。
 《壁が溶けている。》
 この1行で始まる企画は、日本という国がトロトロにとろけていくことに浮かれている。
 「壁越えアジアに融合」「20XX年 人、モノ、文化の壁が崩れた。アジアの通貨が1つになり、そして、円が消える。」
 
 実は50年以上も前にこの道を行こうとした時代があったことを、朝日は忘れてしまったのだろうか。当時としては精一杯の構想だった「大東亜共栄圏」の行き着く先も、実はこうであったに違いないのだが。
 
 ヨーロッパやアメリカと異なり多様な文明圏が並存するアジアにとって、いろんな意味で「安定した国境」がいかに大事なものであるか。日韓併合から日華事変、そして第二次世界大戦参戦に至る苦難の歴史から我々が学ぶべきは、むしろそこにあるはずだ。
 台湾海峡を横切る国境や、ソウル・平壌間の国境が守られることが、平和のためにいかに大事か。見よ、国境無視を唱えてはばからぬ大陸中国や朝鮮国こそ、アジア最大の厄介ものではないか。
  
 産経新聞は、ルネサンスの意義を再論する。
《グローバリゼーションは目新しい現象ではない。大航海時代もそうであったといえる。それは東洋と西洋の文化の融合という光の部分と同時に、西洋による非西洋世界の支配という影の部分をも残した。》
 
 何を通し、何を通さないのか。異なる文明どうしが、お互いをどう尊重し、どういう節度をもって接するのか。広い意味での「国境のあり方」に、今ほど英知が注ぎ込まれなければならないときはないと思う。
 
 そういえば、国境というのは、生物の細胞膜に似ているのかもしれない。
 細胞膜は、吸収と放出にとてつもなく貪欲だが、したたかに身を守り、他者に融合せず他者を融合させない。(たまにウイルスのごとき例外があって困るのだが。)
 多種多様な細胞があるほど、生物が高度であるように、地球もまた多種多様な国があり、文明がある方がよいのだ。多種多様な細胞に酸素を送りこむ心臓や血管にあたるのが、今日でいえば情報技術だろうか。そこを流れる血液がコンテンツだ。
  
 国境が細胞膜なら、文明にとってのゲノム(生命子
せいめいし)は何だろう。それは、それぞれの文明の歴史だと思う。あまたの人びとが織り成した物語の力だ。それぞれの民族がいとおしみを込めて紡いだ命の糸が、思いもかけぬ多様な模様を作っていく。
 グローバリズムがもてはやされる現代に、日本の歴史を納得のいく形で見つめ直そうという気運が高まるのは当然だ。
(平成13年1月7日)
 
 
 21世紀の「赤い結晶体」に挑いど
 
 昭和30年代の小学館の学習図鑑で「21世紀の世界」の絵を見ると、3種の神器は「エアカー」「壁掛けテレビ」「電子レンジ」だった。
 荒野のようなのっぺりした平地に銀色の超高層ビルがそそり立っていた。
 モノに飢え、モノに生きた我々が、ソフトの大切さを切実に感じながら迎える、現実の21世紀。
 
 NTTドコモの宣伝で、ケータイを使うわれらのヒーローたちが活躍している。「ウルトラセブン」のモロボシ・ダン隊員、時の流れを超えてやってきた「スーパージェッター」、国際救助隊「サンダーバード」のバージル・トレーシー隊員、「サイボーグ009」の戦士島村ジョー。
 「もう空想じゃないんだな、21世紀って。」
  
 遠く、星のようにきらめいていた「21世紀」が、しっとりとやってきた。
 
 去年は「ミレニアム」、今年は「21世紀」で、1粒で2度おいしい、とはまさにこのことだろうけど、お蔭で図らずも「二番煎じ」風になった2001年、いろんなことを考えるのには最高だ。
 
 昭和42年11月に放映された『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」。
 クリオネを朱色の甲殻類にしたような「メトロン星人
せいじん」が登場するドラマ。自動販売機のタバコに精神錯乱を起こす赤い結晶体が混入される。ごく普通の善良な人が突然狂い出す事件が頻発する。事件の解決に奮闘するウルトラ警備隊の隊員じしんが、狂乱者のひとりとなる…
 
 事件の黒幕を追い詰めたモロボシ・ダンことウルトラセブンに、メトロン星人は言う。
 
《我々の実験は十分成功したのさ。赤い結晶体が人類の頭脳を狂わせるのに十分効力があることが分かったのさ。
 教えてやろう。我々は、人類が互いにルールを守り信頼しあって生きていることに目をつけたのだ。地球を壊滅させるのに、暴力をふるう必要はない。人間どうしの信頼感をなくすればよい。人間たちは互いに敵視し、傷つけあい、やがて自滅していく。
 どうだ、いい考えだろう。》
 
 この黙示録的世界は、オウム真理教現象にかぎりなく似ていた。
 
 脚本を書いた金城哲夫氏のアイロニーが炸裂するのは、最後のナレーションだ。
《メトロン星人の地球侵略計画はこうしておわったのです。人間どうしの信頼感を利用するとは、恐るべき宇宙人です。
この話は遠い遠い未来の物語なのです。
え? なぜだって?
われわれ人類はいま、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから。》
 
 
 さまざまな赤い結晶体が飛び交った20世紀だった。
 あるときは「マルクス主義」、あるときはGHQの「War Guilt Information Program
(戦争罪悪感植付け洗脳計画)」。いまはもてはやされている「グローバリズム」だって、「第3次産業コロニアリズム」であって、とんでもない結晶体だったと分かる日も近いのではないか。結晶体として抽出され、認識されるころには、大きな怪獣に成長しきっているのだが。
 

 さて、21世紀の赤い結晶体は何だろう。
 いかなる結晶体であろうと、それを溶かし去るのは、「ことば」の力に違いない。
 ことばの力を信じて、そしてことばが創りだす共感を信じて、わがコラム、今世紀もがんばります。

(平成13年1月1日)