文字とことばと文学と


         アイルランド語と琉球語

 東南アジアのあるプロジェクトでアイルランドの設計会社とつきあっている。
 これまで、香港案件で英国人たちと付き合い、フィリピン案件で米国人と付き合ってきたが、同じ「英語人」でも それぞれに「お国ぶり」が出るのが大好きだ。
    
 「お国ぶりを大事にしたい」というのが、がコラムの流儀である。ボーダーレスの世界を吹聴する連中は、このコラムの筆者が最も軽蔑するところだ。


■東南アジアで見つけたアイルランド語辞書
 入札が終わって、何はともあれ「打ち上げ」だ! ということになり、東南アジアのある国の首都の Hard Rock Cafe に、アイルランド人15人ほどと日本人5人が集まった。

 アイルランド人のホスト役の現地法人社長が、愛想よくビールを配ってまわる。
 「何がいい?」と聞かれれば、答はもちろん「ギネス」だ。

 若いエンジニアを傍らに呼んで聞いた。
 「ねえ、Trathnona maith duit. って、どう発音するんだい?」
 ひとしきり発音トレーニングをしてから、かの社長さんに挨拶した。
 "Trathnona maith duit! Good evening!"

 「打ち上げ」会の1時間前に、近くのデパートの本屋でポケット判の Irish Dictionary を見つけて買ったのだ。
 「よくそんな本がこの街にあったねえ」と社長さんがうれしそうに言った。

■英語・ドイツ語からはるかに遠いアイルランド語
 誤解なきよう最初に言っておくと、もちろん仕事はすべて英語でやっていた。アイルランド人どうしも英語で会話していた。遠くダブリンからこの会社の事務所に送られてくる新聞も英語の新聞だった。彼らの口からアイルランド語が出るには、一呼吸必要な感じだ。

 語学好きのコラム子も、さすがにアイルランド語まで手を広げるつもりはない。辞書の前文が対訳になっているが、これを見ただけでも英語とアイルランド語は相当に異なる語系だ。

<<The useful Irish grammar section in the middle of the dictionary includes extensive tables of regular and irregular verbs. 
(辞書中央の便利なアイルランド語文法欄には、規則動詞・不規則動詞を広範に収録した表がある。)>>

これがアイルランド語では、
<<Sa ghraimear beag usaideach i lar an fhoclora, faightear tablai de reimniu na mbriathra, idir rialta agus neamhrialta.>>
となる。
ghraimear は grammar のことだ。tablai は tabla の複数形で tables だ。それ以外は、英語と似ても似つかない。

 人口365万人、ほとんど日本の四国と同じ規模のアイルランドでは、このアイルランド語が第一公用語。英語が第二公用語になっている。すべての公文書は、アイルランド語と英語の2つの言語で作成される。

■アイルランド語への迫害
 アイルランドが英国に併合されたのが1800年。日本が韓国を併合する110年前だ。
 1840年代まではアイルランド語の地位は揺るがなかったのだが、このころの大飢饉による疲弊でアイルランド人の米国への移民が本格化するなどして、アイルランド語の地位は低下。
 1922年になって、アイルランド自由国が建国されると、英語と並行的にアイルランド語教育がすべての学校に導入されて、どん底は脱した。

 「ハムレットやリア王を始めとして、シェークスピアの主な作品は、エスペラントに翻訳されています」というのが、エスペラントの世界では1つの宣伝文句になっている。
 その流儀で「ハムレットやリア王もアイルランド語に訳されているか?」と質問しようとして、ふとためらってしまった。
 ひょっとしたら、茶化しの質問と思われるかもしれないではないか。

 そんなことを考えていたら、1人がこう言い出した。
「英国の支配下にあったときは、アイルランド語をしゃべっただけで銃殺されたこともあったんだ」。
「そうだよな」と脇の2人が渋く応じてみせた。

 えてしてこういう話は誇張されるものだ。そもそも、アイルランド人だというだけで殺害するといった政策を、さすがに英国人は採用したことがない。ナチスのユダヤ人政策のようなことはやっていない。
 「この人たちにいろいろ聞くより、自分で調べてみようか」と思っているうちに、話題は移ってしまった。

 Yahoo! で Irish - language - persecution - death という4語が入っているページを検索すると、何と2320件も出てきた。
 すわ! と思い、最初の60件ほどを読んだのだが、4つの単語が全然別の文脈で出てくるものがほとんどで、自力の調査はギブアップしてしまった。

■沖縄の「方言札ふだ」のことなど
 NHK-BS11で朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」を毎日欠かさず見ている。
 北関東の人が文章語を読んでいるような、そんな沖縄なまりの日本語の不思議な明るさが魅力なのだが、もちろんこれとは別に正真正銘の琉球語が存在する。
 いかに沖縄料理や王宮の建築が中国に影響されていようと、古代日本語の流れをくむ琉球語こそ、沖縄が日本であることの証だ。

 さる4月1日夜にNHKで、「日本のことば」という番組の沖縄県特集の再放送をやっていた。
 一口に琉球語と言っても多種多様で、島や村が違うと互いに通じないほどだ、と紹介していた。

 番組の後半で、「方言札
ふだ」のことが出てきた。
 カマボコ板くらいの木の札に紐を通したもので、学校で琉球語をしゃべるとこの札を首に掛けなければならない。外すには、他の子が琉球語を発するのを見つけて、その子の首に掛けてやるしかない。

 この「方言札」のことは、コラム子も本で読んだことがあった。
 「そら始まるぞ。またぞろ戦前の日本のことを悪
しざまに貶けなすのだろう」と思った。

 ところが、NHKは存外バランスが取れていた。
 「方言札」のことを嘆きつつも、それにまつわる学校側と親の側の思惑を紹介していた。
 学校側が共通語普及のための教育をしようとするのは当然として、番組でとくに紹介していたのは、親たちもまた子どもが本土の言葉を習得することを強く望んだ、という点。「だから、方言札もその手段として支持された」という。

 共通語をちゃんと話せなければ、本土で就職しようというときに差し支えるからだ。
 だから、昭和40年代になるまで、「方言札」による大和語学習奨励は続いていたという。

■小言語を育てる不断の努力
 先のアイルランド語の辞書を見ると、computer は riomhair で、computer programming は riomhchlaru という具合に、新しい概念もできるだけアイルランド固有の言葉で表現しようと努力している。
 AIDS を引くと SEIF とあり、これは Siondrom Easpa Imdhionachta Faighte の略なのだそうだ。

 公文書をすべてアイルランド語でも作らなければならないのだから、否応
いやおうなしにあらゆる時事用語・新語をアイルランド語で作り出す必要に迫られる。
 わずかに四国ていどのスケールの国家で、この作業が営まれるのだから、みごとなものだ。

 日本語のような大言語の使用者であると、「この言語の命運を自分が背負っている」などという感覚とは縁遠い。しかし、四国規模の国で独自の言語を育てていくとなると、これに携わる人の使命感は、さぞや強烈ではなかろうか。

 アイルランドは365万人だが、そのはるか北方の島アイスランドとなると人口30万人弱である。
 これでもってアイスランド語という独自の言語を国語として使っている。
 このアイスランド語で本を出版する喜びは、ひとしおだろう。

 コラム子の友人にアイスランド人がいて、中国留学のあと、アイスランド政府の補助を得て中国についての解説書をアイスランド語で出版した。厚さ4センチほどの立派な本だった。
 読者は非常に限られるけれども、民族の言葉の発展に貢献できたという満足感は、何ものにも代えがたいのではなかろうか。

■琉球語もがんばれ!
 沖縄県は人口130万人弱。
 琉球語は多様すぎて、「標準琉球語」が確立できずにいるようだが、アイルランド語やアイスランド語に負けずに頑張ってほしい。

 コラム子の友人に防衛庁勤務のキャリアの官僚がいて、沖縄の米軍基地問題の担当だというので、こう言っておいた。
 「琉球語による出版に思い切った投資をしてはどうか。言語を通じて沖縄のアイデンティティーを確認するという作業は、確実に沖縄人が日本人であることをも確認する作業となるのだから。自衛隊や米軍を軽んじて、中国領にされてしまうことが幸せなのか、しみじみ考えてもらえるはずだ。」

 その場は盛り上がったのだが、次に会ったときにはこの御仁、神奈川県の担当に配置替えになっていて、「米軍のためのディスコを作ってるよ」と自嘲していた。おいおい、ディスコも大事だが、神奈川の空港に民間機が発着できるよう頑張ってくれ!

 さて、話題はさきのアイルランド人たちとの「打ち上げ」会に戻る。

 6時半から始まった飲み会は、11時になっても延々と終わらない。
 「泉さん、どうすればいいんでしょうねえ。アメリカ人やイギリス人なら、向こうからお開きを宣言してくるでしょ。でも、この人たち、エンドレスですよ」
 「たしかに意外な展開です。アイルランド人の流儀って、わたしも分かりませんねえ…」
 「われわれがサヨナラを言うのを待ってるのかもしれませんよ」

 というわけで、「日本にメールを打たねばならぬから」と称して、おいとました。
 "Go raibh mile maith agat! Thank you very much!"
 翌日聞いたら、アイルランド人たちはその後も延々夜中の2時まで同じ場所で飲んでいたのだという。付き合っていたら大変なことになるところだった。

 イングランド人ほどの「切れ」を見せず、シャイなアイルランド人が大好きだ。
 アメリカ人と付き合っていると、とてつもない善人がたまにいるのだが、あれはアイルランド人の血を引いているのではなかろうか。 
(平成13年5月13日)
 
        面白くてためになる国語辞典 

 三省堂『新明解国語辞典』は、ビアス著『悪魔の辞典』を気取ってないか。先週号はそんなお話をした。
 
さて、今週はお清めに推薦本の特集である。

 Ambrose Bierce の The Devil's Dictionary (明治39年刊)は有名だが、コラム子が推したいのは平凡社の『噴版ふんぱん 悪魔の辭典』だ。

《結婚  離婚資格を入手すること》 (横田順彌
じゅんや
《結婚  国に届けでた性関係》 (日高敏隆)
 もっとも短いのを引用させていただいた。珍解好みの『新明解』など、平凡社に頼み込んでこれらの語釈を使わせていただいてはどうか。ちなみに『新明解』では
《結婚  (正式の)夫婦関係を結ぶこと。〔法律的には婚姻と言う〕》
 何となく、「上野のパンダが今日2回結婚しました」という、あの婉曲表現の「結婚」を連想させる語釈だが。

 『噴版 悪魔の辭典』は、昭和61年刊。上記のお2人のほか、安野光雅
あんの・みつまさ、なだいなだ、別役べつやく・みのるの5人が、162の単語に珍釈を競っている。

 『新明解』につられて、いきなり悪魔本を紹介してしまったが、本題に戻り、ためになる国語辞典としてご紹介したいのが、
明治書院の『精選国語辞典』

《湘南  神奈川県相模湾沿岸地方の名称。 
[ノート] 旧国名相模国の南部であるから「相南」とすべきところを、中国の景勝地湘江しょうこうにあやかって「湘南」と書かれるようになった。》

 これは知らなかった。というわけで、すなおに買ったのがこの本だ。
 ちなみに、「結婚」を引くと、22も類語が並べてある。
[類語] 祝言 祝儀 縁組み 華燭の典 輿入れ 嫁入り 婿入り 床入り 初夜 新枕 所帯を持つ 早婚 晩婚 初婚 再婚 再嫁 再縁 復縁 重婚 婚姻 婚礼 婚儀 ⇒夫婦・情事》
 矢印に従い 「夫婦」 を引くと、[類語] 欄に 「鴛鴦の契り」 など 9語。「情事」を引くと、これまた [類語] 欄に 「転び寝」 「乳繰る」 「火遊び」 など25語。

 この明治書院の辞典、編集委員は高校の先生がた。前書きを見ても高校生の国語学習を多分に意識している。しかし、ご覧のとおりで、社会人の使用にも十分耐える、粋な辞書である。
 「デスク版」(机上版)も出ている。
辞書の醍醐味は何と言っても例文だ。気のきいた例文がどのくらい載っているかが、辞書選びの決め手だ。

 「教師が歴史の授業をするにあたって
偏向は許されないと、政府の報告書はきわめて明快に力説している」
 「社会党のいわゆる『
善玉ぶる』ところが、とことん嫌いだった」
こんな例文が出ている辞書が売れている。

 と言っても、日本の辞書ではない。ケンブリッジ大学出版会が出している Cambridge International Dictionary of English だ。
 それにしても、いやはや、
日本も英国も悩みは同じ、というのがよくわかった
 この例文が出ているのは、partisan と virtuous の項。原文は、
《The government report stresses very firmly that teachers must not take a
partisan line in history lessons.》
《He disliked intensely what he called 'the
virtuous tendency' in the socialist party.》

 わが国の中型国語辞典のなかで、例文が楽しいといえば、何と言っても
新潮社の『新潮現代国語辞典』(第2版)である。

 「社会主義」を引くと、こんな例文が出ているのだから、あっと驚く。
《社会主義  … 「ちつとも眠くないの。
社会主義のご本を読んでゐたら、興奮しちやいましたわ〔斜陽〕」》
 なにか、「社会主義」という金属質の単語に、突然トクトクと血が通い出したような気がするではないか。
 親見出しの「社会」では、明治19年刊の『当世書生気質』から例文を引いている。
《社会  … 「
社会とかたくるしくいふときには、どうやら政治くさくきこゆれども、浮世とやはらげていひかふれば、おのづと色気づきて聞こゆるぞかし〔当世書生気質〕」〔ヘボン〕》

 この辞書は、ヘボン編の『和英語林集成』第3版(明治19年刊)の見出し語として採用されている単語には全て 〔ヘボン〕 と入れてある。
 われわれが使っている、あの単語この単語にみごとな歴史があることを感じさせてくれる。ことばへの慈しみの気持ちが自然と湧いてくる本だ。
 
 明治時代の日本語にも強いのが、この辞書の魅力なのだが、ひょっと楽しませてくれるのが山田詠美『ひざまずいて足をお舐め』(昭和63年)から取った例文のかずかず。
 「愛する」を引くと、この『ひざまずいて…』をはじめ、『舞姫』『坊つちやん』『草枕』『日本国憲法』から取られた例文が競演している。これまたなかなか粋な辞書である。
 新潮社さん、ぜひ机上版を出してください。あちこち読み出したら止められないのですよ。

 他に、これ1冊といえば、
集英社の『国語辞典』。これの横組机上版を愛用している。
 アクセント表示もあり、語釈も過不足ない。中型国語辞典の雄
ゆうである。機能語の例文に、唱歌から取ったものがあるのも、いいセンスだ。
《を  …「あした浜辺
さまよえば」「からまつの林すぎて」「あわれ都逃れきて」「おもちゃは箱とび出して」》
 この辞書の巻末に35ページにわたり本格的な日本語論が展開されていて、読み応えがある。ぜひご一読をお勧めしたい。
《平成13年2月4日)


        三省堂『新明解国語辞典』の胡散うさん臭さ

 三省堂が出している『新明解国語辞典』。このクラスの中型国語辞典のなかでは、販売部数ベストワン、累計1700万部。
 
実はコラム子も愛用していたのだが、あるときこの「辞典」の とてつもない胡散うさん臭さに気が付いてしまった。
 何とこの『新明解』の編集部では、「君が代」を国歌として認知すべきかといったことを部内で論じてきたらしいのだ。「部落差別」についての記述も疑問あり。
 存分に批判させてもらう。

 はじめに申し上げておくと、『新明解国語辞典』は全体として見ればよくできた辞典である。語釈にさまざまの工夫がこらされ、標準語アクセント表示もありがたい。基本語彙の用例ごとに類義語を添えてあるのもよい。

 見出し語「つくづく」に、こんな用例が出ている。
《A新聞は子供のころから我が家の愛読紙だったが、十数年前つくづくいやになって、取るのをやめた》
 このA新聞が『朝日新聞』とすれば、まさに我が家の状況そのものだ。
 こういう面白い例文や語釈が、もっぱら話題となってきた。

 さて、お立会い。読者の皆様、これを見てどう思われるか。

《国鳥  …… 日本ではキジ。》
《国花  …… 日本の国花はサクラ。》 
《国歌  …… 〔わが国では「君が代」が
それとされる〕》
《国旗  …… 〔日本では、日章旗、すなわち日の丸の旗が
これに当たる〕》
(以上、平成9年発行の第5版より)

 国鳥や国花の言い切りに比べて、国歌・国旗の注書きは妙に含んだところがある。なぜ言い切らなかったのか。とくに、国歌君が代について「それとされる」と書いた裏には、君が代を国歌として認めたくないという思いが滲
にじみ出ているではないか。

 これらの表現、実は考えに考え抜かれた表現なのだ。平成元年発行の第4版ではこうなっていた。
《国歌  …… 〔わが国では「君が代」が
それだとされる〕》
《国旗  …… 〔日本では、日章旗、すなわち日の丸の旗が
これに当たるものとされる〕》

 第4版と第5版の表現をよく比べていただきたい。
 
 平成元年から平成9年の間に、国旗の語釈から、「とされる」が消えた。編集部は、日章旗についてはこの間に「国旗」と認知したのである。しかし、「国歌」の語釈の「とされる」は維持された。君が代を「国歌」と認知することは耐えがたかったのであろう。

 それにしても、第4版の国歌注書きの「それだとされる」の「だ」の1文字。繊細な言語感覚をもつ人ならば、この1文字に侮蔑のメッセージを読み取るであろう。

 はたして、『新明解』で「いわお」を引くと、次のような語釈である。
《いわお  ……〔
人の通行を妨げるかのように〕地表から突き出た、大きな岩。》

 いろいろと辞書を見たが、「巌
いわお・いはほ」でかくも意味深しんな注書きを付けているのは、現代語・古語辞典を通じて『新明解』だけのようである。古語辞典の種々の用例を見ても、「人の通行を妨げるかのよう」な巌は見当たらないのだが。
 この注書きの根拠、明快に語っていただけぬものか。

 三省堂は、よほど君が代が嫌いのようで、『三省堂国語辞典』第4版(平成4年発行)で国歌を引くと
《国歌  ……〔日本は「君が代」
で代用する〕》

 これにはさすがに仰天した。三省堂は、わが国日本には「国歌」が存在しない、と信じていたらしい。

 現在書店に並んでいる『三省堂国語辞典』からは、同じ第4版でもこの注書きは削除されている。国旗・国歌法のお蔭である。

 さて、ことのついでに念のため言っておくが、わが国の国花は「サクラ」とは限らないのである。国花を「サクラ」と決めた公的文書は存在しないのではないか。
 「菊」もまた国花の候補なのである。
 『集英社国語辞典』で国花を引くと
《国花  ……わが国では、桜または菊。》
とある。
 国旗・国歌にはあれほど「慎重」な『新明解』は、なぜ国花については「サクラ。」と言い切るのか。
 
 『新明解』で部落を引くと、次のような注書きがある。
《部落  ……〔狭義では、
不当に差別・迫害された一部の人たちの部落を指す。この種の偏見は一日も早く除かれることが望ましい。…〕》

 一見まともな語釈に見えるが、コラム子には
合点のゆかないところがある。

 思えば、コラム子の父は、県庁職員時代に同和対策課で持ち前の正義感で頑張っていた。様々な思惑をもつ団体の狭間で、公の代表としてどう対処するか。細心の情報管理。苦労を重ねた父の姿が忘れられない。
 コラム子の友人に、言うなればこの差別の犠牲となりかねない人もいる。私にとっては大事な友である。昭和天皇ご即位の詔勅から取られた「同和」への道のりが、21世紀を迎えてなお先へと続くのは、一民族として、これ以上に残念なことはない。


 さて、『新明解』は、何を思ったのだろうか。
 「強姦」「強盗」「殺人」「セクハラ」などなど、悪と断ずるべき見出し語を数々引いても、国語辞典として善悪判断までを下してはいない。当然である。国語辞典は、ものごとに善悪判断を下すべき書物ではないのだ。
 なぜ部落差別については善悪判断を記述するのか。
 この
特別扱いこそが、部落差別を温存する心根こころねの発露であり、唾棄すべき「えせ同和行為」の温床となっているのである。
 
 東京都総務局人権部普及啓発課が出している『みんなの人権』というパンフレットがある。
 このパンフでは、同和問題が、女性や障害者、アイヌ、外国人、エイズ感染者、犯罪被害者などに纏
まつわる問題と同列に扱われて論じられている。
 この東京都人権部の姿勢を支持したい。
同和問題は、特別扱いをせず、広い文脈で論じていくべきなのだ。
 
 さて、もうひとつ、コラム子が引っかかったのは、「除かれ
ることが望ましい」という表現だ。
 もし仮に善悪判断にまで踏み込んで書くとすれば、
「除かれねばならない」ではないのか

 学校の校則に、「遅刻しないことが
望ましい」という表現がありうるか。そんな校則があったら、今時の生徒は半数以上が遅刻するのではないか。
 「タバコは吸わないことが
望ましい」と言われながら、多くの人が吸っている。実はコラム子も。しかし、「麻薬は吸わないことが望ましい」とは言えない。「麻薬は吸ってはならない」のである。
 「女性は強姦しないことが
望ましい」などという文が存在しうるか。「強姦してはならない」だろう。
 要は、
「〜が望ましい」とは一種の「容認」の表現ではなかろうか。「除かれることが望ましい」などという安直な表現は、コラム子の筆からはとても出て来ないのだが。
  
 言わせてもらえば、『新明解』の編者の人権意識は、病的なところがある。「動物園」の語釈を見るがよい。

《動物園  生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと
称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。》(第4版)

 この揶揄
やゆと皮肉に満ちた語釈を見られよ。
 全国津々浦々の動物園で、限られた予算の中で精一杯に動物を慈しんでいる動物園勤務の人々には、如何にしても許せない記述であろう。動物園勤務の親を持つ子供たちは、いかなる気持ちで『新明解』を引いたことか。
 こんな辞典が自ら 《しばしば「国民的辞書」と言われる》(第5版序文)などとシャーシャーと言ってのけるのを見れば、はらわたが煮え繰り返る思いの人もいたと思う。
人の気持を思いやるというごく自然な人間的感情が、人権意識の原点だ。『新明解』の編者にはこれが決定的に欠落していたのではないのか。

 種々抗議を受けたに違いない『新明解』は、第5版ではこう書く。
《動物園  捕らえて来た動物を、人工的環境と規則的な給餌とにより野生から
遊離し、動く標本として都人士に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設。》
 どうだ、これで文句あるまい、というところか

 それにしても、「遊離する」という動詞を他動詞に用いているのが、日本語として変である。『新明解』自身、「遊離する」の語釈は自動詞である。「野生から遊離させ」と書くべきだろう。
 「都人士に見せる」とおっしゃるが、では愛媛県上浮穴郡小田町大字寺村に住むわが従兄弟、とても「都人士」などとは言えぬこのナイスガイは、「動物園」には行けぬのか。
 あれこれひねくり回した挙句、日本語としても内容から見ても、おかしな語釈となっている。
 
 『新明解』で「恋愛」を引くと
《恋愛  特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、
出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。》(第4版)
《恋愛  特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、
出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。》(第5版)
とある。
 たしかにこれも「恋愛」の1つの典型かもしれない。しかし、「恋愛」とはもっと広義の言葉なのではないだろうか。
 「あなたが幸せならそれでいい」とか「あなたを見守っていたい」とか、そんな控えめな恋愛感情だってあるのだ。『新明解』の語釈は、書きすぎた挙句、誤った内容になっている。
 
 編集者の一部の面々が、「明解」ならぬ「珍解」に走っている。
 しかし、『新
珍解国語辞典』と名乗らぬ以上、『新明解』はまともな辞書として刊行してほしい。
 それほど「珍解」が載せたければ、むしろ『珍解辞典』を別に作ってくれぬか。何部売れるかご覧
ろうぜよ。
  
 第5版で驚いたのが、「従軍」の項に登場させられた用例「
従軍慰安婦」、とその説明だ。
《従軍慰安婦  〔=
前線に動員され、兵士の性の相手を強いられた女性〕》

 中型の国語辞典で、「従軍慰安婦」を載せたのは、『新明解』第5版が初めてではないか。
 「従軍慰安婦」という言葉は、昭和48年に千田夏光なる作家が造語したということまで分かっている。これをタイトルにした岩波新書も出たが、最近はかの『朝日新聞』でさえ使わなくなった。
 「慰安婦」は存在したが、「従軍」などしていない。 「従軍八百屋」や「従軍理髪師」などという言葉がないのと同じだ。

 さて、『新明解』の語釈にいう「前線に動員」とはどういう意味だろうか。さも「銃弾飛び交うところへ法的命令によって集団で連れて来られた」がごときである。適切な表現とは思えない。

 「兵士の性の相手を強いられた」というのは、ある意味でその通りだが、ではこの辞書で売春はどう定義されているか。
《売春  女性が金銭のために不特定の男性と性交渉を持つこと。…》
 「従軍慰安婦」の語釈の流儀で言うならば、「売春」とは「女性が
生計のために不特定の男性の性の相手を強いられること」だろう。
 さて、『新明解』第6版では何と書くか。

 『新明解』をこうして読んでいくと、さもしい心根はそのままに、特定の勢力に対しては媚びを売っていわゆる「進歩派」の如きを演ずる、浅ましい偽善者の姿が浮かんでくるのである。
 編集主幹・山田忠雄、編集委員会代表・柴田 武。ご両人よ、心配には及ばない。あなた方のことは永遠に覚えていてあげるから。
(平成13年1月28日)

    誤解された「英語第二公用語論」

「21世紀」を銘打ちながら、すでに半ば忘れ去られたごとき提案書。
 昨年1月18日、
今は亡き名宰相小渕恵三首相に提出された21世紀日本の構想」である。碩学河合隼雄座長のもと、綺羅星きらぼしの知が「自立と協治で築く新世紀」を語りかける。建設的議論のみごとな叩き台になっている。 

 21世紀の元旦号で、この「構想」を再論した主要紙がどこもなかったのはつくづく残念だ。
 コラム子は、あえて論じてみたい。
 まずは「英語第二公用語論」だ。
 実は、これにコラム子は賛成なのである。
 
 「英語第二公用語論」は、日本国憲法第9条の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条文に似ている。多分に宣伝効果を狙っているところがある。一見本気で戦力不保持を唱える国会答弁をした吉田 茂 首相が、「米国の傭兵にされてたまるかってことよ」とばかりに舌をぺろっと出していたように。
 
 「21世紀日本の構想」懇談会の報告書の内容で、もっとも世間の話題となったのが、この「英語第二公用語論」であった。あるていど時期をおいて出た評論は、これをテーマにしたものが特に多かった。
 コラム子など、国際語試案であるエスペラントの世界にも多少かかわっているのだが、おおむね判で捺
したような非難である。
 その他、「英語よりもアイヌ語や朝鮮語だ」という類の思いつきの揶揄
やゆ論も見た。

 平成12年2月8日の産経新聞東京本社夕刊で、千野境子論説委員が書いている。題して「協力し合おう国語と英語」。
 《首相官邸のホームページに寄せられた一般の人々からの報告書への意見は、ほとんどがこの問題を取り上げ、うち多くは第二公用語化に反対という。さもありなんである。》

 千野境子さんは、懇談会の分科会メンバーだった。「そもそも報告書は英語を第二公用語にせよなどとは言っていない」と嘆いておられる。

 報告書を見ると、「第二公用語」に言及したのは以下の箇所だ。よく読めばまことにバランスが取れており、提言としてふさわしい。世に溢
あふれる批判者たちは、全文をちゃんと読んだのだろうか。
 要は、英語を日本の国語 (national language) にしようと言っているのでもなければ、英米の national language としての英語を学ぼうというのでもない。日本語があくまで「第一」だ。日本語を日本の national language として大事にしようという根本は変えず、その上で我々日本人の表現手段を補おうというのだ。

《ここで言う英語は、
単なる外国語の1つではない。それは、国際共通語としての英語である。グローバルに情報を入手し、意思を表明し、取引をし、共同作業するために必須とされる最低限の道具である。もちろん、私たちの母語である日本語は日本の文化と伝統を継承する基であるし、他の言語を学ぶことも大いに推奨されるべきである。しかし、国際共通語としての英語を身につけることは、世界を知り、世界にアクセスするもっとも基本的な能力を身につけることである。》

《それには、社会人になるまでに
日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な到達目標を設定する必要がある。その上で、学年にとらわれない修得レベル別のクラス編成、英語教員の力量の客観的な評価や研修の充実、外国人教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託などを考えるべきである。それとともに、国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付けることを考えるべきだ。》

長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的議論を必要とする。まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない。》 (以上、第1章「総論」)

 実は、
キーワードは「国民の実用語」なのである。そしてそのために、今なおタブー視されている「習熟度別授業」の必要性を説き、学校教育のあり方を問うている。世の論者の議論も、このレベルの具体論を戦わせるべきだ。

《戦前の日本は軍事力を最終手段として行使することを辞さない権力政治(パワー・ポリティクス)志向の国であったが、戦後は経済活動に全力をあげる金力政治(マネー・ポリティクス)型に転じた。両者に対し、今日の国際関係において急速に重要性を高めているのは、
言語を武器とする言力政治(ワード・ポリティクス)である。たとえば、多国間会議において…も、多くの国の必要を踏まえていながら正統性のある説得的、魅力的な発言が会議の流れを買えるのである。…今や国際的に優れた表現力を持つ人材は何個師団にも相当する「国力」なのである。》(第6章「世界に生きる日本」)

 まったく同感だ。かくいうコラム子も、契約交渉で米英人の弁護士たちと英語で議論して建設的に打ち負かすのが本業だ。

 憲法第9条で、戦力不保持を謳
うたうなら、その分わが国は国を挙げてオシャベリになるべきなのだ。「どうか黙ってくれ」「日本人はうるさくてしようがない。何とかならないものか」と言われるくらい弁舌の世界で強したたかになります、という誓いが憲法第9条ではないのか。政府が広報に力を入れ、また、外国の誤解・理不尽にこと細かく論戦を挑むことはもちろん、国民一人ひとりも外に向かってモノを言う、そういう国民になろう、と読み替えるべきだ。
 外に向かってモノが言えない主権喪失時代のままの憲法教科書で学ぶから、そういう発想に繋がらなかったのだ。
 第9条を、隠居宣言のことと思っている向き少なからず。みんな隠居すれば、世界は平和だ、などと。断じてさにあらず。騒がしい蜂の巣状態の宣言と思うべし。

《誤解を避けるために強調しておきたい。
日本語はすばらしい言語である。日本語を大切にし、よい日本語を身につけることによって、文化と教養、感性と思考力を育むべきは言うまでもない。だが、そのことをもって外国語を排斥するのは、誤ったゼロ・サム的な論法である。日本語を大事にするから外国語を学ばない、あるいは日本文化が大切だから外国文化を斥しりぞける、というのは根本的な誤りである。日本語と日本文化を大切にしたいなら、むしろ日本人が外国語と他文化をも積極的に吸収し、それとの接触のなかで日本文化を豊かにし、同時に日本文化を国際言語にのせて輝かせるべきであろう。》

《すでに国際化の進行とともに、英語が国際的汎用語化してきたが、インターネット・グローバリゼーションはその流れを加速した。英語が事実上世界の共通言語である以上、日本国内でもそれに慣れる他はない。
第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべきである。国会や政府機関の刊行物や発表は、日本語とともに英語でも行うのを当然のたしなみとすべきである。》 (以上、第6章「世界に生きる日本」)

 船橋洋一著『あえて英語公用語論』(文春新書)を見ると、種々各論が展開されている。
 要は、「第二」というところがポイントで、日本語を慈しむことは当然だし、日本語だけでも十分に生活できる環境は維持される。いわば「プラス・ワン」なのだ。その「プラス・ワン」をどの程度に持っていくか、またどの程度のところで留めるかに、英知を発揮せねばならない。

 
船橋氏があえて議論を避けたところを言えば、日本のマスコミ関係者も、ぜひ英語に強くなってほしい。社説やコラムを書くほどの人なら、日頃から The Asian Wall Street Journal 紙や Financial Times 紙、Time 誌、Asiaweek 誌などを折々読んで知見を広めるべきは、言うまでもない。
 それができないような御仁は、失礼ながら直ちに論説委員会を去って、一記者に戻ってほしい。
 想像するに、この手の英字紙・誌をろくに読む能力がなくても大新聞に論説を書いていられるのは、日本と大陸中国、韓国くらいではなかろうか。
 
 人に求めるだけでは片手落ちゆえ、今号はコラム子も英文記事を掲載する(「歴史にどう立ち向かうか」A Letter to The Japan Times: "Truth" about the Comfort Women)。
 (平成13年1月21日)


     次作にも期待したい大江氏の『取り替え子』

 大江健三郎氏の最新作『取り替え子 チェンジリング』を読んだ。
 
伊丹十三じゅうぞう氏との共著というべきかもしれない。大江氏の小説としては久々に、人に読ませる作品となった。

 大江氏みずから言っている。
《書きはじめた最初は若い人によく読まれたと思います。ところが次第次第に読まれなくなった。》(注1)
 この「若い人によく読まれた」ころというのは、いつを指すのだろうか。
 大江氏としては、自ら思い入れの深い『個人的な体験』と『万延元年のフットボール』発表のころを指しているのかもしれない。

 しかし、私に言わせれば、まさにデビューして間もない昭和33年の、『芽むしり 仔撃ち』のころでしょう、と申し上げたい。『取り替え子』は、それ以来ひさびさの快作だ、と。
 昭和32年の『死者の奢
おごり』や昭和33年発表の『人間の羊』『芽むしり 仔撃ち』の、媚びをしらない文体は、疾走し、きらめく才能を存分に発揮していた。
 これが、東京にスポイルされた田舎青年よろしく、自らに媚びる文体に変容していったのが、その後の大江氏だったような気がする。

 実はコラム子は、大江氏の浅薄な歴史観に我慢がならない。嫌いな作家だ。同氏を取り上げれば、ひたすら非難と皮肉の文章になりそうで、『明日の四国ウイークリー』では大江氏のことは書くまいと思っていた。
 たとえ郷土愛媛の生んだ作家でも。

 しかし、『取り替え子』は、大江氏の若いころの躍動する文体が不死鳥のようによみがえっている。

 故伊丹十三氏のことばを綴り、いわば「巫女いたこ」となることで、文体に酸素が与えられた。
 これを褒めたかった。伊丹氏への哀悼と感謝の気持ちもこめて。

 文壇・論壇のそれなりの主流を泳ぎ、権威に祭り上げられながらなお、抵抗者顔
づらをしてみせることが自分の存在理由であるかのごとき大江氏だった。その偽善と偽悪の妙な入り混じりが、人を大江文学から遠ざけたのだと思う。
 ご子息の光
ひかるさんの音楽をひっさげて登場したときには、ほとんど新興宗教の教祖さまになるのではないかと心配だった。
 その大江氏が、老いて、枯れて、吹っ切れて書いたのが『取り替え子』だ。

 大江氏の社会評論は、共産党のアジビラが私の教材でした、とでも言わんばかりで、読むに耐えないものが多いのだが、さて今後大江氏は自分の人生をどう締めくくっていくのだろう。
 読書家のはずの大江氏から、《私はこれまで歴史の本をあんまり熱心に読んだことがないものですから》(注2)と言われるとびっくりする。どうかいろんな流派の歴史書を読んで、そして道化師となって、これまでの自分の信条に対して批判的に向き直ってもらいたいものだ。

 いい例が昭和34〜35年のいわゆる「安保闘争」についての大江氏の観念だ。
 《1960年には、太平洋戦争に敗れた後、日本がアメリカと結んだ安全保障条約の改定をめぐって、それに反対し条約の廃棄をもとめる民衆運動が起こりました。そして民衆の側が敗北した。》(注3)
 想像力を売り物にする作家なら、歴史をもうすこし斜
はすに見てほしい。「民衆」を煽動したのは誰だったのか。そしてその人たちはまた何に操られていたのか。「民衆の側」というが、昨日の「民衆」が今日は手のつけられない「権力」と化した例は、歴史の中に多々ある。
 実は『万延元年のフットボール』など、よく読めばそういう不条理もにじみ出てきていて、だからこそ今後の日本文学に残る作品でもあるのだが、それを書いた肝心のご本人に、社会科系統の発言をさせると、たちまちアジビラのレベルに落ちぶれてしまう。

 大江氏にぜひ書いてほしい小説がある。
 複雑な素性ながら初心
うぶな性根の田舎青年を、政治のアドバルーンに巧みに利用した勢力。これにみごとに嵌はまる青年。我知らず権威となり、やがて裸の王様と呼ばれる老境。
 案外、大江氏なら書けるのではないか。
 この人はとんでもなく道化たところがあるのだ。

 ところで、『取り替え子』では、大江氏が伊丹氏と出会った空間として、いや、長江古義人
ながえ・こぎとが塙 吾良はなわ・ごろうに出会った場所として、ストーリーが幾度も「松山」に及ぶ。吾良は旧懐をこめて、「マッチャマ」と呼ぶ。
 松山はまたひとつ豊かなストーリーをいただいた。
 お子たち向きのではないけれど。

注1 大江健三郎『あいまいな日本の私』「井伏さんの祈りとリアリズム(1994年11月)」(114頁)
注2 上掲(132頁)
注3 上掲書「北欧で日本文化を語る(1992年10月)」(180頁)

(平成13年1月1日)