教科書と教育の未来

目次

小学生向けの国語辞典は、文英堂がお薦め (平成13年2月4日)
教科書は地方でも作ろう (平成13年1月14日)
習熟度別クラスをタブーにするな (平成12年12月24日)
文部省は「新学習指導要領」のホンネを語れ (平成12年12月24日)
小学校低学年19人学級実現を (平成12年12月17日)
基礎・基本をおろそかにする「新学習指導要領」 (平成12年12月17日)

  


     
小学生向けの国語辞典は、文英堂がお薦め
 
 小学生用の国語辞典がいろいろある。新学年を前にして、子どもに1冊買ってやろう、という方もおられると思う。
 
 書店に並んでいるものを見ると、まことに似たり寄ったりで甲乙つけ難いように見える。
 
 ところが最近、ある発見をした。「天皇」についての語釈を比べてみると、編集者がどこまで真剣にことばに向き合っているかが分かるのだ。
 
 小学生に「天皇」のことをいったいどう教えたものだろうか。
 
 実は我が家では、1月2日に皇居へ一般参賀に行くのを恒例としている。愛媛県松前町
まさきちょうにいる義母が皇后陛下の大ファンで、毎年年末年始の上京は、2日の参賀を楽しみにしている。
 その参賀の日、娘がまだ小学1年のときだったが、こう聞かれて頭が秒速100回転してしまった。
 

 
「お父さん、天皇陛下って、どういう人なの?」
 さて、「日本の国を代表している方」か、いや、それじゃ分かりにくいなぁ…
、「日本の王様」というのも変だし… などと思ううち、娘が続けた。
「今日は日本で一番偉い人に会うんでしょ」
 

 
 うーん、君、大学を出てしまうと、とてもそういう表現はできないんだよ、人間みんな平等なんだよ、などと呟
つぶやきつつ、やはり小学1年生には「日本で一番偉い人」が分かりやすいのかな、と思った。おばあちゃんに教わったのに違いない。
  
 しかし、さすがに国語辞典にはそうは書けない。書けば誤りというべきだ。
 ではどう書くか、なのだが、これがけっこう難しい。
 
 難しすぎて、逆に安易な道に走る辞書が多い。
 
《天皇  憲法によって日本の国の象徴とされている人》 (小学館『学習国語新辞典』全訂新版 <平成5年>)
《天皇  日本国憲法によって日本の国および日本国民統合のしょうちょうであるとさだめられている人》 (福武書店『チャレンジ小学国語辞典』第3版 <平成6年>)
 
 これで分かる小学生がいたら天才だ。「象徴」というのがきわめて分かりづらく、また説明しづらい。
 
 「国の象徴」というのは、「政治権力を有さぬ国家元首」(中学生以上向け)「国を代表するもっとも高い地位にある人だが、国の政治を左右することはなく、政治に左右されることもない」(小学生向け)とでも腑分けしないと、理解されようがなかろう。
 
 もう1つ問題なのは、もうお分かりかと思うが、上のような語釈にあてはまる天皇は「昭和天皇」と「今上
きんじょう天皇」のお2人しかおられないということだ。日本国憲法以前の他の123人の天皇は、いったいどこへ消えてしまったのか。
 
 
 
 数ある辞書のなかで、まっとうな語釈をしているものがただ1つあった。
《天皇  むかしから日本の政治の中心となって国をおさめてきた君主。今は、政治にかんけいせず、国の象徴としての地位にある。》 (
文英堂『小学国語辞典』 <初版・昭和62年、現在は第3版>)
 
 歴史展望から入る手法がみごとだ。「国の象徴」という言葉も、その前に「政治にかんけいせず」とあるので、この文脈からあるていど意味の推測ができる。
 
 さきの小学館の辞書のように、「憲法によって国の象徴とされている」と記述するのは、実は誤りである。
 日本国憲法をよく読まれよ。
 「国民の総意によって国の象徴とされている」のである。憲法が決めたから天皇があるのではなく、憲法以前に国民の総意によって天皇があり、それを憲法が記述した、というのが第1条の正しい読み方ではなかろうか。
 わが憲法第1条、近代の衣を纏いつつ、なかなかうまく作られているのだ。
 「総意」という訳語を見つけた日本の官僚もなかなか偉かった。
 
 さて、文英堂の辞書に戻る。
 一般語彙もいろいろ比べたが、この文英堂の辞書は全体として非常によくできている。小学4年生から6年生には、ぜひお薦めしたい。
 もちろん、わが家の娘たちも使っている。
(平成13年2月4日)
  
  
 
       
教科書は地方でも作ろう
 
 『北国ほっこく新聞』(金沢市)の平成13年元旦社説。
 さすが日本一の地方紙だけあって、借り物ではない教育論を展開していた。
 
 題して、「教科書は地方でつくろう」。
 
《とっぴな提言ではないのだ。なぜなら、長野県の教師の職能団体である社団法人・信濃教育会が―全国でここだけだが―文部省の検定をクリアした正規の教科書を自前でつくり、長野全県で採用されているからだ。》
 
 小学校の生活科(1〜2年生用)と理科(3〜6年生用)の教科書を長野流に制作して
いるのだという。
 
 確かに、理科の自然観察は、地方によって気候が異なり動物・植物も違うのだから、地方の状況に合わせた教科書があった方がよいだろう。北海道も沖縄も、それぞれに異なる編集の教科書で身の周りの自然の観察を促せば、生きた授業の助けになるだろう。
 
 現在でも、小学校の社会科では、地域の生活・産業・地理・歴史などを教える副読本がそれぞれに使われている。たとえば東京都足立区でも、区の教育委員会が小学校4年生のために『わたしたちの足立と東京』という副読本を作っていて、ゴミ処理工場のことや荒川周辺の治水の歴史などなど紹介している。
 
 コラム子も、小学3年生のときの社会科副読本は松山市が作ったものだった。明治末期から大正にかけての、伊予鉄道と松山電気軌道の客引き合戦の話など、いまだに覚えている。松山で2つの私鉄が競争していた、そんな時代があったのかと、うきうきした。
 
 4年生のときは、愛媛県制作の副読本だった。今思えば、歴史の記述が貧弱だった。偉人の紹介も少なかった。無味乾燥な地理読本だったような気がする。30年後の現在は、どんな副読本になっているのだろう。
 
 市や県の単位のみならず、四国について語る副読本もあっていいと思う。広域行政区「四国府」の実現は、子供の教育でも先取りしたい。
 
 理科や社会の教科書だけでなく、国語や道徳の教科書も地域に根差した教材が作れるのではないか。
 
 苦労して認可を勝ち得た軽便鉄道から発展する伊予鉄道の歩みなど、企業家精神をかきたてるいい文章になるはずだ。
 
 幕末から明治にかけて活躍した伊達宗城
だて・むねなりの伝記などもよいのではないか。宇和島藩主。あの田舎の宇和島で、洋式兵学を導入して、ペリー来訪の翌年の安政元年(1854年)には蒸気軍艦を建造する。大変なドラマだったと思う。明治政府でも、要職を歴任した。
 
 コラム子が小学4年生のころ、愛媛の偉人といえば正岡子規と義農作兵衛
さくべいくらいしか習わなかった。「愛媛には偉い人がおらんのォ」と思ったのをはっきり覚えている。
 
 愛媛を例にあげたが、舞台を四国4県に広げて、四国の偉人たちの歩みを子供たちに読んでもらいたいものだ。
 
 中学・高校用には、四国出身の作家の文章や四国の県紙のコラム・論説を集めて『四国文章読本』のようなものを作ってもよいのではないか。
 
 正岡子規、高浜虚子や伊丹万作、大江健三郎などの名がすぐ浮かぶのだが、四国出身者も多士済済である。

 
 徳島市出身の瀬戸内寂聴さんや柴門
さいもんふみさんのエッセーなどいかがか。
 高知県出身なら、安岡章太郎さん、清岡卓行
たかゆきさん、倉橋由美子さんなど純文学作家が目白押しだ。高知市の広末涼子さんのエッセーなど、中学生向けには最高ではないか。
 香川の観音寺市出身の芦原すなおさんの直木賞『青春デンデケデケデケ』もいいだろう。
 松山の高校を卒業した伊丹十三さんや天野祐吉さんのエッセー。北条市出身の劇作家 早坂 暁
あきらさん。平成12年になくなった真鍋 博さんもいい文章を書く人だった。
 
 こんなことを構想しているとウキウキしてくるのだが、そういう人間はコラム子だけかしらん。
 郷土とのつながりによって満たされるものというのが、けっこうあるような気がするのだ。
(平成13年1月14日)
 
 
  
     
習熟度別クラスをタブーにするな
 
 
 明るいニュースが飛び込んだ。
 
 公立小中の基本教科で、1クラスあたり20人ていどの少人数授業を可能にする教職員配置計画が、12月18日、来年度予算の事前折衝で決定。来年度からの5ヵ年計画だ。
 大歓迎である。いよいよ公立小中で、習熟度別授業の実施も可能となる。
 やろうと思えば、の話だが。
 
 かたや「画一化教育はダメだ」と言われ、かたや「子どもを差別するな」「地域格差を是正せよ」と言われ、相矛盾する要求の狭間で「官僚無謬論」も維持しなければならないとすれば、「じゃァどうすりゃいいんだヨォ!」と啖呵の一つを切りたくもなろう。
 
 このままでは、児童・生徒もさることながら、文部省もひねくれてしまう。いや、もう十分ひねくれている、のかもしれない。
 だから、褒めるべきは思い切り褒めてあげようではないか。
 
 現在の全国小中の教職員総数約71万人。少子化のため来年度からの5年間で26,900名を削減すべきところ(!)、削減をあるていど控えることで実質的な増員を図る、という。
 
 要は、雇用対策ゆえ、日教組も大歓迎だ。結果として国民もみごとに少子化の恩恵を受ける。学級そのものを少人数編成にするところまではいかないが、教科によっては生徒・学生たちを少人数のグループに分けて指導することが可能になる、というのだ。
 
 習熟度に差がつきやすい基本3教科で、20人ていどでの授業の実現を目指す。小学校では国語・算数・理科、中学校では英語・算数・理科だ。
 
 少子化のおかげで、ある意味では無策のうちに、教員1人あたりの児童生徒数が欧米なみの水準に改善される、というわけである。
 
 われわれサラリーマンが営々として働き、豊かな国を作るのは、決してバブルの酒池肉林のためではなく、まさにこういうことを実現するためのはずだった。それが実現されるのが、はからずも少子化のゆえだったとなると、いささか情けなくもなる。
 
 豊かになったら何をするか? 前もっていろいろな夢を膨らませておかないと、今の不況を抜けて次の好景気が来たとき、またまたバブルに浮かれるだけ、ということになりかねない。そういう意味でもいい教訓にしたいところだ。
 
 その経緯はさておき、教職員定員の改善はすばらしいことであり、文部省と先生たちを大いに応援したい。前号で論じた1学級19人制に向けて、まずは幸先のよい第1歩ではないか。
 
 少人数クラスの運用は、各学校長の裁量にまかされていくのであろう。
 単に学級を2つに分けた授業とするのか。習熟度によって児童・生徒を「ゆっくりコース」と「じゃんぷコース」に分けるのか。
 
 平成14年度から実施の「新学習指導要領」による限り、後者しかないと思う。
 文部省政策課長の寺脇 研
てらわき・けん氏が自ら言っている。
 
《新指導要領で示しているのは、すべての子どもに確実に身に着けてもらわねばならないミニマム・リクワイアメント(最低限の要求基準)だ。指導要領を標準としていたこれまでとは考え方が違う。》
(読売新聞 平成12年12月20日第17面)
 
 要するに、「最低限」を教える学級と、現在のレベル以上の学級とを作らねばならない、と言っているのだ。何しろ「これまでとは考え方が違う」のである。
 
 もはや教科ごとの習熟度別クラスをタブーにしてはいけない。
 マスコミにも、いろいろな意見が出るだろう。
 習熟度別クラスへの絶対反対も結構。そういう新聞社や放送局は、せめて職員の採用をくじ引きでやるところまで、論理を貫いてほしいものだ。

(平成12年12月24日)
 
 
 
       文部省は「新学習指導要領」のホンネを語れ
 
 
 12月17日号の読者からの、ある反響。
 
《授業時間数が、これほどまでに少なくなることには驚きました。結局、進んだ勉強をするには塾が必要ということであれば、公立小学校は図工、音楽、体育に専念して、午後は塾に通い、夜は家で過ごすほうが健全な生活を送れそうです。》
 
 これも1つの究極の姿である。「個性の尊重」と「ゆとり」「生きる力」を目指せば、これも1つの行き着く先だ。
 
 平成14年度実施の「新学習指導要領」の目玉は「総合学習」の時間だ。
 先生が優秀であれば、これほどすばらしいものはない。
 
 足立区の西新井第二小学校の小二クラス担任に、優秀な先生がおられて、自然観察をテーマに児童たちに絵本を作らせている。
 たんぽぽの花びらを数え、根を掘ってみる。さまざまな落葉樹のどんぐりを集めて料理して食べてみたり。
 子どもたちには驚きの連続だ。
 絵本作りは、理科(生活科)・国語・図工の総合授業。それぞれの児童たちが体験する達成感。
 
 「総合学習」がこういう授業なら大歓迎である。
 
 実際、「総合学習」についてホームページ検索をして、地道な実践例を読ませていただくと、児童・生徒と一緒に勉強したくなるようなテーマも多々ある。 「大豆」とか「竹」をテーマに、歴史・産業・文学・調理・工作などなど、いろんな切り口から学習を深めていく、というような例もある。
 わが国にすばらしい先生方がたくさんおられることを実感する。
  
 逆に言えば、そういう授業は現在の学習指導要領のもとでも十分可能だということでもある。
 それなのに、あえて主要教科の授業時間を減らし、学習内容を減らすというところまで、なぜ文部省は踏み込むのか。
 
 文部省のメッセージが総論にとどまっていて、いまひとつ具体性に欠ける余り、「総合学習の時間は<環境>教育に充てるのが無難だ」「いや、小学英語だ」「コンピューターだ」などなど、先生方や関係者の間ではさまざまな憶測や慮
おもんばかりが飛び交っているようだ。
 
 どうか、先生方自身もきらめく授業でありますよう。
 
 小学校では英語の綴りは教えない、といった妙なルールを作って、あげくの果ては日本全国カタカナ英語の時間だった、などということにはなりませんよう。
 
 昭和20年代前半のGHQの教育政策をひとつの理想として懐かしみ、「教育の正常化」には種々反対してきた日教組が、「総合学習」の時間について静かなのはすこし不気味である。「総合学習」の名のもとに、日教組流の歴史観や社会観にもとづく社会科特別授業が、堂々とまかり通り出すといったことも十分考えられる。

 
 教育基本法をしっかりとしたものに書き換えようという気運の裏には、そういう切実な危惧があるからだ。教育基本法が国会で議論される所以もそこにある。
 
 「教師個人が優秀ならよいが、そうでなかったら子どもは救われない」という声に対して、文部省政策課長の寺脇 研
てらわき・けん氏が述べている。
 
《今までのように学校が密室状態なら、心配されている通りになる。カリキュラム改革だけでは駄目で、学校改革と教師の意識改革がセットでなくてはならない。子どもがどういう教育を受けているのかきちんと情報公開をして、保護者、納税者の評価を仰がなくてはならないというように変えていかなければならない。》
(読売新聞 平成12年12月20日第17面)
 
 要は、父兄ももっと学校の学習内容に関心をもたねばならないし、また関心をもてば発言権も得られるようにすべきだ、ということであって、至極真っ当である。
 そうしなければ、「子どもは救われない」と文部省の政策課長が言っているのだ。「心配されている通りになる」と。
 
 子どもを学校に送る側も手を抜きすぎていたかもしれないが、学校・文部省の側も論理の一貫性を確保してもらいたい。子どもの授業の参観を、一定のルールのもとに広く認めるべきだし、学級崩壊を起こしているところには父兄会や町内会が助力できるようにする、といった制度も、設けてよいだろう。地域の事情に合わせて、いろいろな工夫ができると思う。
 
 子どものために一肌脱ぎたいという人はたくさんいるはずだ。
 そういう立派な国民なのだ、日本人は。
 だから、教育問題は人を熱くするのだ。
 
(平成12年12月24日。27日加筆)
 
  
 
       小学校低学年19人学級実現を!
 
 
 自民党の松山支部連合会が、平成13年度の松山市の予算編成についての要望書を中村時広市長に提出した。小学校低学年(1年生〜3年生)の少人数学級(20〜30人)実現が、この要望書には盛り込まれている。
 ぜひ実現してほしい。
 少子化を嘆くヒマがあったら、少子化の恩恵を国民に還元するべきだ。
 
 『北国新聞』のコラム「時鐘じしょう」が、さる11月15日に少人数学級のことを論じていた。駐名古屋米国領事館のジョアン・リヴィングストン領事のアドバイスというのだが、ためになるお話なので引用させていただきたい。
 
《米国内の多くの教育研究機関が一致して指摘していることだが、小学校の低学年(1−3年生)では先生と児童の割合が1対19が望ましい。日本でも子供の数が減っている。この少子化を「1対19」への移行のチャンスと考えるべきだというのである。》
 
《なぜ、1対19なのか。先生の目が児童ひとりひとりにまでいきとどく。そうなると、
児童の先生への信頼感が強くなり、先生にほめてもらうために一生懸命に勉強するようにもなる。その結果、先生を信頼し、集中して勉強するというクセが身につくのだそうだ。》
 
《低学年のうちに身についた学習態度は大人になっても続く。だから反対に、
人数の多い学級編成の下で授業に集中できないという悪いクセが身につき、一度そのクセが身につくと、後から少人数のクラスへ入れられても直らないという。》
 
 授業参観に行くと、確かに低学年のクラスの先生はつくづく大変だと思う。算数など、教壇から話を聞かせるだけではダメで、生徒の机を廻ってのこまめな指導が欠かせない。
 生徒たちは、入学前の幼稚園や保育園ですでに相当の差がついている。もともと情緒不安定な子もあれば、先生や友だちの気を引きたいとイタズラをする子もある。
 これを40人いっぺんに指導せよというのは、酷な話である。
 
 わが中央政府の文部省は、少人数学級の実現にきわめて否定的だった。その理由が、ああだこうだとよくもここまで考えつくものよというほどの詭弁ぞろいだった。
 
 要するに、日本全国おんなじように少人数クラスを実現することは、物理的に無理なのである。そう言えばいいのに、「人数が多い方が協調性が養われる」とか「小さなグループでは人間関係が固定してしまってよくない」などと言ってきた。
 
 物理的・財政的に、全国すべてで実現はできないが、できるところからやります、と素直に言えばいいものを。
 
 文部省の役人の講釈など、もう聞いてはいられない。松山市役所よ、大事な子どもたちのために、銭を惜しんではならぬ。ぜひとも低学年19人学級を実現してもらいたい。

(平成12年12月17日)
 
 
 
 基礎・基本をおろそかにする「新学習指導要領
 
 
 平成14年から実施される新学習指導要領。主要教科の授業時間が大幅に減らされる。
 
 『週刊東洋経済』平成12年11月18日号の特集に、授業時間削減ぶりの棒グラフが出ていたので、小2と小4の娘たちに見せて言った。
 
 「いいかい、お父さんのころに比べて、君たちの学校での勉強はこんなに減るんだよ。余った時間をどう使うかだ。マンガやゲームでつぶしてたら、ほんとのおバカになっちゃうぞ。」
 
 同誌に出ていた棒グラフは衝撃的で、気を失いそうになった。内容をご紹介すると…
 
[小学校6年間の授業時間]
昭和46年  国語 1603 算数 1047 社会 663 理科 628 合計 3941
平成 4年   国語 1601 算数 1011 社会 420 理科 420 合計 3452
平成14年  国語 1377 算数  869  社会 350 理科 345 合計 2941
 
[中学校3年間の授業時間]
昭和47年 国語525 社会455 数学420 理科420 英語420 合計 2240
平成 5年  国語455 社会385 数学385 理科350 英語420 合計 1995
平成14年 国語350 社会295 数学315 理科290 英語315 合計 1565
 
 昭和40年代に比べて平成1桁の指導要領は、社会・理科などの知識教科の時間数を減らしているが、国語・算数(数学)・英語など反復練習の欠かせない基礎科目の時間数はそれほど減らしていない。この肝心の
基礎科目が、平成14年からの新学習指導要領ではバッサリと減らされる
 
 これまでも学習指導要領はほぼ10年ごとに変更されてきたが、今回の変更はこれまでと根本的に異なる。
 
 日能研の広告で、「円周率はおよそ3と教える」とか「台形の面積を求める公式を教えなくなる」とか、新学習指導要領のごくごく断片が知られだした。
 これに対して文部省は、「基礎・基本の確実な定着を目指している」とか「総合学習の時間がある」などと反論している。
 
 しかし、
どう見ても、「基礎・基本」を学ぶ時間が減っているではないか。
 「落ちこぼれの生徒を無くす」と言って教科書を薄くするのは、千歩譲って認めるとしても、
その分だけ授業時間も減らしていては、何の解決にもならないではないか
 
 駐名古屋米国領事館ジョアン・リヴィングストン領事の話を、11月16日の『北国新聞』コラム「時鐘
じじょう」が紹介している。
 
《米国の教育行政は各州の自主性を尊重しているため、州の数だけ、すなわち50通りの教育が行われているが、日本のそれは全国一律の学習指導要領で縛っているため、1通りしかない。》
 
 その
1通りの新学習指導要領がもし失敗すれば、約10年間にわたるトンデモない世代が出来上がることになる。
 
 文部省の役人たちや、これを批判的に報道すべきマスコミ関係者は、「どうせ自分の子どもたちは私立の学校で学ばせるから大丈夫だもんネ」といった了見ではないのか。
 
 現行の指導要領のままの学校と、新指導要領で教える学校を並存させてはどうか。大きな学校なら、クラスによって適用する指導要領を変えてみてもよい。子どもをどの学校、どの学級に行かせるかは、父兄が選ぶものとする。そういう
選択権が与えられるなら、文部省はいくらでも生体実験をやってみるがよい。
(平成12年12月17日)