わが愛媛、わが松山



【目次】
イラストレーター 真鍋 博さんを偲ぶ
「劇場の街 道後」構想
「三津浜中華街」構想 ― 松山市を台北市松山区と姉妹都市に




    イラストレーター 真鍋 博さんを偲ぶ
 



 
四国・愛媛県の誇り、イラストレーターでエッセイストの真鍋 博まなべ・ひろしさんが、平成12年10月31日、癌で亡くなられた。68歳だった。
 コラム子も『愛媛新聞』に追悼の投書を送り、これが平成12年11月3日に掲載された。
 
≪新居浜市生れの真鍋博さんが亡くなられた。
 真鍋さんは、私が小学校のときから愛媛県人として誇りに思う人だった。星新一のおしゃれでピリッとしたショートショートを飾ってくれたのが、真鍋さんの未来図だった。直線を多用したスマートなタッチで、田舎とは別世界の都会風景を描いてくれた。カッパブックスの『英絵辞典』のイラストも真鍋さんのお仕事で、この本で私も英語が好きになり、今は商社マンをやっている。
 大阪万博の三菱未来館のイラスト群も忘れられない。一時代を作ってくれた人だった。
 「活躍する愛媛人は?」と聞かれれば、私は必ず真鍋さんの名を挙げた。
 ぜひ新居浜に真鍋博記念館を作ってほしい。新居浜の人には失礼かもしれないが、おそらく新居浜初の「全国に通用する文化施設」になるはずだ。
 愛媛県総合科学博物館(新居浜市)に真鍋さんのコーナーを作ってもよい。真鍋さんの作品の数々は、きっと子供たちの夢を育んでくれるはずだ。
 郷土の誇り、真鍋さん、もっともっとあなたの作品が見たかった!
 合掌。≫
 
 『英絵辞典』は、愛媛の里の本棚に今もあるはずだ。真鍋さんは、もともと油絵を志しておられたが、社会との関わりを求めてイラストレーターの道を選ばれた。『英絵辞典』のカバーの著者紹介にそう書いてあったのを覚えている。
 愛媛新聞社刊の月刊『えひめ雑誌』の巻頭エッセー+イラストを長きにわたって書いておられた。内容はさまざまだったが、広く文明のあり方に関わっていた。愛媛新聞社ないし大手出版社から、総集編をぜひ刊行してほしい。
 
■ 郷土料理と文明批評 ■
 
 昭和53年・角川書店刊の『味のふるさと 21 愛媛の味』に、真鍋さんは 「鄙味礼讃 東京に<郷土料理>のない自慢」というエッセーを寄せている。
≪愛媛には、いわゆる有名料理がない。それは瀬戸内海に面し、海岸線がまがりくねって長く、そこへ山がせまっていて、前に海、背に山があり、海の幸、山の幸がいつも左右の手のとどくところにあり、あれこれ加工して秘術をつくさなくてもうまく食べることができたので、特別な料理法を産まなかったのだろう。まけおしみでなく、郷土料理の店が東京にないのを自慢に思う。万葉の歌の多いところをみても早くから大陸文化が入って開発がすすみ、独自性を失ったのだろうか。民謡のないのにもそれが言える。≫
 
 この一節のなかにも、郷土を我しらず探しつづける真鍋さんの姿が浮かんでくる。
 ちなみに、今では東京にも、伊予の郷土料理の店が少なくとも3軒ある。日比谷、新橋、渋谷にあって、いずれも売り物は南予の海の幸だ。ここで日本一の「じゃこ天」(野趣あふれる、から口の薩摩揚)と「日振飯(南予鯛めし)」(鯛の切り身の卵黄入りダシ醤油漬けぶっ掛け飯)を食うと、幸せな気分になる。
 
 さきのエッセーで真鍋さんは続けて語る。
≪考えてみると、わが郷土愛媛の味は、革命的に変ってもいず、かといってあたりまえでもなく、ほどほどにユニーク、そして材料そのものをガラリ変えもせず、つまりハードウエアならぬソフトウエアを工夫するというところがあり、そんなふるさとの味で育ったところに、ぼくのイラストの実用新案というか応用性と加工性があるように思うのである。≫
 ああ、生真面目で日頃は目立たぬように思えて、その実じつしたたかに自己主張する、そんな愛媛県人が見えてくるではないか。
 
■ 受け継がれゆくもの ■
 
 『読売新聞』(平成12年11月12日号)の「追悼抄」には泣けた。石田汗太記者は、真鍋さんのさまざまなお仕事を紹介したあと、
≪しかし、最高の「作品」は、息子たちではなかったか。(中略) 
兄弟にとって、父親はずっと「厳しく怖い人」だったという。
「でも、こちらが綿密に計画を立てて説明すれば、いつでも黙って送り出してくれた」。
「人と同じことをするな」「今日という日は今日しかないぞ」が口癖の父は、仕事で構ってやれなかった分、子供の早い自立を願っていたようだ。アメリカに留学した兄は気鋭の古生物学者となり、弟はテレビアナウンサーの道に進んだ。≫
≪21世紀を描き続けた画家の、21世紀を目前にした死。しかし、バトンは確実に手渡された。≫
 
 コラム子の属した、吉野義子主宰の「星」俳句会(松山市)の俳誌の表紙も、昭和54年の創刊以来長きにわたり真鍋 博さんの作品だった。平成12年12月号の表紙が最後となったが、聖なる火に星と雪が舞い、一すじの流れ星が落ちていく絵であった。
 
 平成11年秋に愛媛県の教育文化賞を受賞され、平成13年元旦には愛媛新聞賞授賞の発表があった。
 文明のありようを自分の言葉で語り、時空を越えたイメージを描き、数多くの人の心をときめかせ続けた人だった。
(平成13年1月14日)
 



  劇場のまち道後




 
松山といえば道後どうご温泉、ということで「道後温泉本館」がそのシンボルとなっている。三階建の日本建築。三階の大屋根には、振鷺閣しんろかくという太鼓台が設けられ、今も時を告げている。道後温泉に行ったことのない人も、この本館の姿ならテレビで見たことがあるはずだ。
 
 道後町初代町長の伊佐庭如矢いわにわ・ゆきやが、明治27年に建てた。建設計画が発表されたときには批判、いや、非難囂々ごうごうだった。信念のひと伊佐庭町長は、反対者の説得に奔走し、この偉大な遺産を後世に残してくれた。
 道後温泉本館がなかったら、今ごろ道後はホテルビルが立ち並ぶだけの場所に成り下がっていただろう。想像しただけでぞっとする。
 
 実は、県外から来る観光客は、道後温泉本館のような建物が街並みを作っているのであろうと期待してやってくる。そして幻滅して帰る。道後温泉の温泉成分が年々薄くなっているというのも、公然の秘密である。
 起死回生の一発はないか。
 
■ ストーリーあるストリート ■
 
 「劇場のまち道後を作れ」というのが、コラム子の提案だ。
 紙幣に肖像が刷られるほどの偉人に小説を書いてもらったまちが、この地球上にどれだけあるだろう。小説『坊ちゃん』のお蔭で、松山は物語の空間となった。松山を訪ねる人は、お湯に浸かりにくるのではない。何かしら心に沁みるストーリーを求めて来るのだ。
 応えてさしあげたいではないか。
 
 劇場を作ろう。道後にさまざまな小劇場を作ろう。
 古来温泉につきものの剣劇やストリップ、も結構だが、おしゃれなコント劇場や若い世代の前衛もの、本格文芸ものなど、いろんな空間があれば楽しい。それをはしごしながら、地酒を一杯、というのはいかがか。
 学生時代にデモ行進をしていた世代が、爺婆じじばば世代に突入しつつある。井上陽水を愛し、ロックに揺れる爺さん婆さんが、この日本に出現しつつあるのだ。温泉と海鮮鍋物だけでは飽き足りない世代へのプラスワンこそ、この劇場街だ。
 
 松山市主催の「坊ちゃん文学賞」は、小劇場用シナリオの文学賞に変えればよい。受賞作の上演には、松山市と道後の温泉組合が補助金を出す。劇場は、とりあえずテントの仮小屋でやってみる。お金はまずソフトに注ぎ込もう
 この企画が5年間続けられたなら、いよいよ本格的劇場を建てよう。愛媛県喜多郡きたぐん内子町うちこちょうの「内子座」のような純日本式の劇場を作ろうではないか。きっと道後温泉本館と響きあう空間になるに違いない。
 
 道後温泉は、一つひとつのホテルが頑張りすぎて、お客を囲ってしまった。夜の温泉街には、人波が醸かもし出すさんざめきが乏しい。温泉の客が飲みに行くのは、温泉街の酒場ではなく、松山城下の二番町だ。
 そんな道後に、街を徘徊はいかいする喜びを取り戻し、豊かなストーリーの空間を創りたい。
(平成12年11月5日)




  松山市を台北市松山区と姉妹都市に!




 三津浜みつはま。夏目漱石の松山赴任の折、上陸した港がここだ。
 『坊ちゃん』では随分ひなびた漁村として描かれている三津浜。しかし、今に残る町屋まちやの立派さを見ても、長大な商店街を見ても、実際の三津浜がただの漁村とは一味ちがった賑にぎわいの町であったことが分かる。
 松山市に併合されなければ、三津浜「市」になっていたかもしれない。
 
 前世紀に取り残されてしまったかのような三津浜だが、首都圏の住人から見れば宝のまちだ。
 松山市の中心部から車で20分たらずのウオーターフロント。新鮮な魚介類のあがる場所。海を見晴るかせば、風光明媚な興居島ごごしまの小富士が見える。
 これが首都圏にあれば、誰が放っておくものか。
 
■ 「宝の持ち腐れ」「磨けば光る玉」 ■
 
 夢は縦横に描くことができる。
 海辺に海鮮レストラン街はどうか。
 興居島までの海域はクルージングに絶好の場所だ。
 
 三津浜には水族館を作る。興居島にはおしゃれな分館を作る。夜は熱帯魚に囲まれながらカクテルを傾けるスペースに変身する。
 温泉郡重信町にある高畠華宵たかばたけ・かしょうのギャラリーを、興居島に持ってきてもいい。ミカン山と漁業しかなかった島が、ファッショナブルな観光地に変貌する。
 
 今日、夜の三津浜に行ってみるがいい。人通りはなく寂れた感じだが、大通りの車の流れは途切れることがない。車の流れを町に引き込めないだけなのだ。
 
 台湾中国の台北市に松山区がある。「まつやまく」ではなく、「しょうざんく」と読まねばならないが。松山空港という国内線専用の空港がある、人口20万7千人の行政区。松山市のパートナーとしては手ごろなサイズ。
 この松山区しょうざんくと、松山市まつやましが姉妹都市になってはどうだろう。
 (念のため断っておくが、この「松山区」ができたのは、台湾中国が中国国民党の治下にはいってからである。決して、「まつやま」に倣った名を日本人がつけたものではない。)
 
 松山区しょうざんくには、観光夜市がある。昭和62年に作ったもので、川に沿って600メートルにわたり160の屋台が並ぶ、と松山しょうざん区役所のホームページに紹介されている。
 これと提携して、三津浜にも中華街を作ってはどうか。新鮮な魚介を売り物に、海鮮中華のまちにするのだ。
 
■ ほんもので勝負だ ■
 
 いくら瀬戸内の魚が美味いといっても、刺身と鍋物と焼物だけでは2日と経たずに飽きてしまう。スーパーに高級魚が横たわる飽食の時代なのである。
 
 目先を変えた海鮮中華というのは、本物を持ってくれば絶対に受ける。蒸した白身魚に、中華醤油と葱油ねぎあぶらをかけて召すがよい。からりと揚げて風味豊かなチリソースをかけても旨い。
 北京と香港の仕事が長かったコラム子に言わせれば、日本人はまだ海鮮中華の魅力に目覚めていない
 時流に乗れば、大ヒットすること請け合いだ。
 
 ラーメン屋や焼餃子屋をいくら並べてもダメ。
 まず本物を見てきて、年季を入れたコックさんたちにも来てもらい、本場の食材も持ち込んで、三津浜の海の幸で一味ちがった中華街に挑戦してみよう。
 三津浜の賑わいはきっとよみがえるはずだ。
(平成12年11月5日)