映画評 + アルファ
 
 

【目次】
ラスト・サムライ (平成16年1月1日配信)
スパイ・ゾルゲ (平成15年7月7日配信)
 
 

 たぶんほんとうはカッコ悪かった「最後の侍」
 
 
映画『ラスト・サムライ』のサイト
 
 【平成16年1月1日配信】
 小雪が演じた女性「たか」がよかった。情熱が熱くほとばしって来そうでありながら、控えめで。
 命を懸けて愛せる女とは、こんな女じゃないだろうか。
 
 映画『最後の侍』(邦題『ラスト・サムライ』)。
 
 日本人制作ならありえないような「ヘンなニッポン」も散見したけれど、維新日本を「抽象画」に仕立てたものと思って見ればいいのだろう。
 
 トム・クルーズ扮するオールグレン大尉が降り立つ横浜港の雑沓(ざっとう)など、維新期の写真集がそのまま動き出したような、みごとなリアルさだった。
 
 通行人の顔を浅黒く、素ッぴんの感じにメークアップし、くたびれた着物を着せたエキストラを、惜しみなく動員した成果だろう。
 このあたりは日本の時代劇制作者も見習うに値すると思った。
 
■ 分かりやすい「絵」 ■
 
 ハリウッド映画だから、渡辺 謙の扮するサムライ勝元(かつもと)盛次は、維新政府の洋式兵器軍に絶望的な突撃を挑んで果てる。
 強烈な美意識が自己完結する様子を分かりやすい「絵」にするには、こうするしかなかったのだろう。
 
 それにしても、勝元の死にはあまりに意味が無さすぎた。
 作り物のストーリーを云々(うんぬん)しても詮(せん)ないことかもしれないが、諧謔(かいぎゃく)を知り才気に富む勝元にふさわしい死とは思われなかった。

 
 勝元は、吉野山中の村里から幾百名の兵(つわもの)を率(ひき)い、刀と弓と知略をもって維新政府軍と戦い玉砕する。
 
 そして、映画のラストシーン。
 郷(さと)の山村には従前と変わらぬ農の姿が、シャングリラ(桃源郷)のように展開する。
 
 維新政府軍は、勝元のふるさとを略奪しに来たわけではなかった。
 まあ、史実のとおりである。
 
 とすると、勝元が果てたのは何のためだったのだろう。
 
 勝元は、山村の農民を守ろうとして果てたわけではなかったのだ。
 ただただ自分の生き方の「趣味」や「主義」に意固地(いこじ)なまでに忠実ならんとして、妻子ある幾百名の男たちをも巻添えにしただけだ。
 
 心ない比喩をさせてもらえば、ただただ時代錯誤のスローガンを掲げて運動家を動員し選挙で敗北した政党のようなものである。
 
■ 「兵」の原理に殉じた勝元 ■ 
 
 『ラスト・サムライ』の勝元像は、サムライを「絵」にしたものとして
は確かに分かりやすい。
 一途(いちず)であることの美。
 それを渡辺 謙が演じるから実にカッコいい。
 
 絶望的な組織戦を戦わざるをえなかった日本軍兵士への鎮魂のようにも思えた。
 
 たぶん、「組織に殉ずる」ことの美化こそが、「武士道」のもっとも通俗的な解釈だ。
 999人の兵(つわもの)とそれを率いる1人の将がいたとして、999人の兵を支配すべき原理は「組織に殉ずる」ことなのだから。
 
 便利で分りやすく身近に通用している原理。
 そして我々も数多くのドラマを通じて、その美学に慣らされてしまった。
 
 華々しく組織に殉ずる姿は美しく見える。
 そして、映画のなかの勝元は、999人の兵と同じ立場にくだって華々しく殉じてしまったように見える。
 
 しかし、1人の「将」を支配すべき原理は、ほんとはもっと別のところにあるのだ。
 
 「組織に殉ずる」ことではなく、「既存の組織を疑う」ことが、たぶん「将」の役目だから。
 
■ 西郷隆盛の引きこもりと毛沢東の成り上がり ■
 
 実際の日本の第一級の武士像は、もっと多様で複雑で、たぶんハリウッド流の「絵」にはなりにくいものだったのだろうと思う。
 
 激動期の将とはたぶん、もっと「カッコ悪い」ものだったのだ。
 カッコ悪いことも堂々と忍んでみせる。それが実は、武士の武士たる所以(ゆえん)だったのではないか。
 
 『ラスト・サムライ』の勝元盛次は、叛乱軍の棟梁だから、西郷隆盛を抽象化したものと言ってもいい。
 実際の西郷隆盛が偉大だったのは、彼が明治政府成立後、「カッコ良く」生きようとしなかったところにある。
 
 隆盛は徳川軍を倒した官軍の最高指揮者だったから、中国共産党軍でいう毛沢東だった。
 独裁者になろうと思えば、西郷隆盛は維新政治をもっと席捲(せっけん)できたろう。
 だが、西郷は(征韓論であやうく狂い咲きしかけるが)むしろあっさり引きこもり人生のほうを選んでしまうのだ。
 西南戦争に担がれても、西郷自身は引きこもりの末に切腹しただけだ。
 
 この辺で毛沢東は違っていて、己(おの)が器を省(かえり)みず「カッコ良く」生き続けようとして、魔の独裁者に大化けする。
 「国民党軍を倒したところで毛沢東が退いていたら、毛沢東は完璧な英雄だったろう」と、ある中国共産党員がコラム子に嘆いてみせたのが思い出される。
 
 毛沢東でなく西郷隆盛を得たことが、近代日本にとっての幸運だった。
 そして、お追従者(ついしょうもの)の周恩来でなく大久保利通を得たことも、近代日本の幸運だった。
 
■ 「絵」にならない慶喜の明治時代 ■
 
 もう一人、偉大なる「カッコ悪い」武士を挙げるとすれば、最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)だろう。
 
 慶喜もまた、近代日本のありようを考えに考え尽くし、一旦その方向が見えるや見事に表舞台から退いて韜晦(とうかい)に徹した。
 次の世代、次の組織原理に、国をあっさり託してしまった。
 
 明治の世の慶喜は、若隠居の変人だ。写真三昧(ざんまい)、油絵もものする不思議な人物だった。
 明治中期以降、反政府の核になろうとすればなれただろうが、ついにそうしなかった。
 
 隆盛と慶喜を貫く「武士の心」とは何だったのだろう。
 
 気象を読む野武士の心。
 分(ぶん)を弁(わきま)えつつ、分を尽くす心。
 次の世代の人々に世を託そうとする思い切り。
 
 仙人のようでもある。
 
 これら全て、映画にしようとすると、なかなか「絵」にしにくい。
 少なくとも、ハリウッドの二枚目俳優向きではないだろう。
 
 そういう「カッコ悪い」役を誇りをもって演じられる人が沢山いたから、明治維新があったのだ。
 
■ 「カッコ悪さ」を恐れぬトップ ■ 
 
 「カッコ悪い」ことが武士である、と言えば、笑われるだろうが、こうして筆を進めながら思い出したことがある。
 
 コラム子の勤務先の、今は亡き、あるトップの話。
 
 当時、商社業界は売上高を競っていた。
 金(きん)の取引を行うと、利幅は極めて薄くても、売上高だけは大いに膨らんだ。
 金(きん)の取引に狂奔する不健康。
 不毛の競争だった。
 
 そのとき、わが勤務先のトップは、金(きん)の取引を自社の売上高に含めるのは止めよう、と決断した。
 社内の猛反対を振り切って。
 
 たちまちわが社の売上高の数字は他社に比べて落ち込んだ。
 商社業界の会合の席次も変わり、わが勤務先のトップは業界の会合の末席に自ら座ることにもなった。
 
 この「カッコ悪さ」。
 
■ それが世の中を変える ■
 
 それでもひるまずカッコ悪さを貫いて、カッコ悪さが貫かれた結果、世の中が変わった。
 売上高の額でなく、利益の額で商社業績を評価しよう。
 そんなふうに世の中が変わっていったのだ。
 
 実質主義の勝負をしよう、という気風は会社にも行き渡った。
 たぶん、他社より、そうとう先んじて。
 
 カッコ悪さを貫いたトップは、その後あまりにも突然に、天に召された。
 
 他のトップのことは忘れても、カッコ悪さを貫いたあのトップのことだけは忘れられない。
 
 たぶん、「侍」というのは、カッコ悪さを忍ぶことなのだ。
 カッコ悪くても、さわやかであり続ける、そういう生き方。
 
 そうありたいと、いつも思っている。
  
 
  「国家」を理解せず「スパイ映画」が作れるか
  
 
映画『スパイ・ゾルゲ』のサイト
【平成15年7月7日配信】 
 映画『スパイ・ゾルゲ』を見た。
 日本の機密情報をソ連に貢ぎ続けたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実(おざき・ほつみ)の話である。
 
 コンピューター画像との合成を駆使した、昭和前期の上海や銀座へのタイムスリップはまことにみごとで、食い入るように銀幕に見入った。
 
 葉月里緒菜(はづき・りおな)の演じるゾルゲの愛人、三宅華子(みやけ・はなこ)も、そのおずおずとしたせつなさがよかった。
 アクの強いゾルゲ役の前で、葉月の三宅華子はつとめて控え目に演じられながら、みごとな存在感があった。
 
 この2つがあったから、なんとか最後まで席を立たずに見ていたといってもいい。
 
 壮大な愚作である。
 
■ 本木雅弘のハナモゲラ語 ■
 
 ごくごく卑近なところから始めると、主人公の尾崎秀実(ほつみ)を演じた本木雅弘(もとき・まさひろ)君が、決定的なミスキャストだった。
 
 この映画の台詞は4分の1くらいが英語である。
 尾崎秀実も、リヒャルト・ゾルゲやアグネス・スメドレーと英語で会話する。
 ところが、この会話が聞き取れない。
 
 ゾルゲ役のイアン・グレンや、スメドレー役のミア・ユーの英語は完璧に聞き取れた。ちなみに葉月里緒菜の英語もまことに上手で、これも当然聞き取れた。
 
 ところが本木君の英語、全部とは言わないが、聞き取れないことがあまりに多かった。
 本木君は、なんとタモリ流のハナモゲラ語をしゃべっていたのである。
 英語らしく聞こえるが英語でない、ネイティヴにも意味不明の言語。
 
 映画製作者たちも、明らかにこのことに気付いているらしい。
 というのは、映画のパンフレットに、言い訳としか思えないことが2箇所も出てくるのだ。
 
≪『舞姫』で郷ひろみがドイツ語のセリフを見事にクリアした体験から、篠田(正浩監督)はかつて歌手だった本木なら英語のセリフも大丈夫だろうと考えていた。≫
(監督インタビューの、インタビュアーによる解説部分)
 
≪英語の台詞も かなりの難関で、イアンさんに随分 助けていただきました。≫
(本木雅弘へのインタビューのなかの本木自身の発言部分)
 
≪篠田監督は粘ってテイクを重ねるというタイプではないので、まちがえずに英語のセリフを言うことはかなりのプレッシャーだったと思う。≫
(上のすぐ後のインタビュアーの解説部分)
 
 英語をしゃべっている日本人俳優たちは他にも多々いるのに、本木の英語についてだけ、言い訳めいたことを書かざるをえなかったのは、本木のハナモゲラ語のゆえである。
 この映画を外国に出したいなら、本木の英語は吹き替えの必要がある。
 
■ 上川隆也の尾崎が見たかった ■
 
 実はこの映画のキャストのなかには、尾崎秀実を演じるのに適任の俳優がいた。
 
 上川隆也(かみかわ・たかや)さんである。
 映画のなかでは、特別高等警察の「捜査官T」を演じている。
 
 上川さんの外国語台詞の才能は、中国語堪能なコラム子が太鼓判を押す。
 
 NHK制作の『大地の子』で主人公の陸一心を演じたのが上川さんだった。
 あの陸一心の中国語はみごとだった。ネイティヴ並みだった。
 もし陸一心の中国語がヘタだったら、あの『大地の子』はとうてい見ていられなかったろう。
 
 (念のため注書きしておくと、上川さんの「外国語台詞の才能」であって、「外国語の才能」ではない。
 上川さんは、中国語の台詞をすべて「音声」として暗記したらしく、撮影の合間に中国人俳優が中国語で話しかけたらきょとんとしていたという逸話がある。)
 
 尾崎秀実の生きざまには、エリートとしてのひ弱さとおめでたさ、そして妙に思い詰めて企(たくら)みを巡らす陰りの部分を感じるのだが、この辺を演じるのにも上川隆也さんはキャラクターとして合っていたのではないか。
 
 本木君が演じる尾崎秀実では、さわやかすぎるのである。
 
 篠田正浩監督は、ゾルゲと尾崎秀実をともに善玉として描こうとしたから、本木君のようなキャラクターが必要とされたのだろうが。
 
 外国語ついでに言っておくと、この映画には駐日ドイツ大使館やモスクワなども舞台として登場するが、そこで人々がしゃべるのはドイツ語でもロシア語でもなく、なんとほとんど英語である。
 これも実に不自然、というか、観客をバカにしている。
 外国人俳優と通訳のギャラを姑息に節約したとしか思えない。
 
■ 商社マンから見てもスパイ失格の善玉尾崎 ■
 
 史実かどうかの議論は別として、筋立ての甘さもいただけなかった。
 
 尾崎秀実(ほつみ)がスパイ活動、というか「政治情報提供活動」に身を投じたのは、上海の租界で中国人たちの置かれた境遇に憤り、世直しをしたかったからだ、という説明になっている。
 
 「善玉」尾崎、である。
 
 彼のごくごく初期の動機はそうだったのかもしれないが、その後長きにわたり、ソ連のスパイであるゾルゲに情報を貢ぎ続けたのがなぜなのか、篠田監督は映画のなかで一切語らせないのである。
 
 篠田監督は、本木君のさわやかなキャラクターで随分ラクをしている。
 
 尾崎は、朝日新聞記者としての赴任先の上海でアグネス・スメドレーからゾルゲのことを「ミスター・ジョンソン」と紹介され、このミスター・ジョンソンの身許調査もしようとせずに、情報を貢ぎ始める。
 スメドレーが紹介した人だから身許調査もせずに相手を信用した、というのが映画の筋立てだ。おめでたい話である。
 
 さんざん情報を貢いだ挙句、上海を離任する寸前になって、その情報がモスクワに流されたと聞かされても、映画のなかの尾崎は驚きも怒りもしない。
 コラム子なら、せめてこの段階でミスター・ジョンソンと縁を切るところだ。
 
 いちばん白けたのは、ゾルゲ一味の宮崎与徳(よとく)に満鉄機密書類を尾崎秀実が渡すシーンだ。
 
 何と尾崎は、満鉄の社用封筒に機密書類の原本をそのまま入れて宮崎与徳に渡すのである。
 
 「あ! このバカ! 原本渡すなよ。満鉄の封筒使っちゃダメだよ」
と心のなかで叫びましたよ。
 
 コラム子も商社マンという「スパイ業もやる職業」に就いてますからな。
 こういうヘマをやらないよう、叩き込まれてきました。
 
 映画では、宮崎与徳の住いに特高が踏み込み、そこで満鉄の封筒と機密書類原本が見つかり、尾崎も足がつく、という展開になっていた。
 
 これが本当なら、尾崎は単なるアホではないか。いやぁ、白けました。
 
■ 近衛文麿善玉史観 ■
 
 この映画は、近衛文麿(このえ・ふみまろ)を「善玉」として描いている。
 「戦争回避のために動こうとしたが、軍部の暴走ゆえに満足に動けなかった失意の政治家」としての近衛文麿、である。
 
 これが、この映画の致命的な欠陥である。
 
 実はこの「近衛文麿善玉史観」、今日に至るまで昭和史を極めて分りにくくしている最大の元凶なのである。
 (この点では扶桑社の『新しい歴史教科書』も落第だ。)
 
 コラム子と長くお付き合いいただいている読者なら、コラム子が事あるごとに近衛文麿を取り上げて、昭和の日本を誤らせた非道の政治家として言及していることを思い出していただけるかもしれない。
 
 中川八洋(やつひろ)著
『大東亜戦争と「開戦責任」 近衛文麿と山本五十六』(弓立社 ゆだちしゃ)
という本がある。
 コラム子一押しの名著だ。
 
 日中戦争拡大、対米開戦、統制経済(日本の社会主義化)が、近衛文麿の大構想のもとに着々と進められたものであること。
 表面は和平主義者を装いつつ、戦争の罪は陸軍に巧みになすり付けたこと。
 
 戦後も60年近く経ちながら、いまだにNHKでも善玉として描かれる近衛文麿の実像を、中川八洋氏の著はみごとにえぐっている。
 探偵小説のように読める、といってもよい。
 バラバラに見えた昭和の歴史の糸がつながり、司馬遼太郎のいう「魔法の森の時代」の秘密が、ようやく解き明かされる。
 
 同書を読めば、近衛文麿も尾崎秀実も、日本国そのものをソ連に貢いで共産主義化することを夢見ていたことを知らされる。
 
 近衛文麿首相を特高が逮捕しておれば、日本は救われたであろうに。
 
■ 『イマジン』の安直 ■
 
 映画『スパイ・ゾルゲ』は、 最後にジョン・レノンの Imagine の日本語訳が銀幕に流れて終る。

≪想像してごらん、この世に国家なんか存在しないと
決して難しいことではない
殺戮も死もなくなり
宗教の争いも消えてしまう
想像してくれよ、すべての人間が
平和に暮らしている姿を
君はこんな私を夢想家と思うだろうが≫

 もしコラム子がジョン・レノンに会えたなら、こう言ったであろう。
 
 「もしも国家が存在しなければ、イギリス人の赤ちゃんの尻にも蒙古斑があったでしょうね」。
 
 モンゴルの蛮軍を辛うじて西欧に入れずに済んだのは、西欧に国家があったゆえである。
 
 もしも国家がなかったら、コラム子など、誰か反対論者が雇った刺客に殺されるかもしれない。
 国家がコラム子を守ってくれるから、本名 泉 幸男を堂々と名乗って配信誌(メールマガジン)を出していられるのである。