宗 教 曼 荼 羅まんだら



カトリック司教の とんだ贈り物


 カトリック教会の神父さんたちの小グループが、とんだ考え違いをしている。
 「日本カトリック正義と平和協議会」といううさん臭い名前の団体の大塚喜直司教が、わが国の国旗・国歌を排除せよと、全国のカトリック系学校長・幼稚園長にこの団体と司教の名前でもってお願い状をばらまいた。
 聖書の教えに背くこと甚
はなはだしい。とうてい許すことができない。
 実はコラム子もたまたまカトリックの信者なのである。聖名シャルル・ド・フーコーと申す。


 イエス キリストは稀代の役者である。聖書には、さまざまの見せ場が用意されていて、歌舞伎の興行を見るごとくに読むことができる。

 もっとも胸がすく場面といえば、ルカによる福音書 第20章20〜26節だ。

 善人を装う者たちが、イエスに向かって問う。
 「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適
かなっているでしょうか」。
 
 みごとな罠
わなである。
 きっとイエスは皇帝の権威を否定し、主
しゅなる神の権威を論じ、納税という行為を卑いやしむであろう。
 そこが狙い目だ。イエスとそれに従う者たちは、これで一網打尽なり…。

 イエスは応えて言われた。
 ≪「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」 彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」≫

 強烈なしっぺ返しである。
≪彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。≫

 この一節は、平たくいえば「政教分離」の原則を明らかにしたものだ。
 ルカによる福音書のみならず、マタイによる福音書第22章15〜22節、マルコによる福音書第12章13〜17節にも、同じ見せ場が語られている。

 イエスなら言われるであろう。
 「日本国の学校教育法を見せなさい。そこにはだれの名と璽
があるか。」

 
■怪文書というしかない「お願い」状
 さて、問題の「日本カトリック正義と平和協議会」、略して「正平協」。全国のカトリック系の学校に、平成13年2月20日に怪文書を郵送した。
 題して「カトリック学校の日の丸・君が代・元号についてのお願い」。カトリック新聞の2001年(平成13年)3月4日付の1面にも掲載された。


 曰く ≪キリスト教の学校でこのまま議論もせずに「日の丸・君が代」を実施し、キリスト暦を尊重しない状態を続けていって良いのだろうかと懸念しています≫。
 
 その理由というのが振るっている。

≪「日の丸」は、旗そのものの起源は古くとも、アジア・太平洋地域の人々にとっては「大日本帝国」軍による侵略のシンボルとして印象づけられています。過去の侵略・植民地化の責任を認めず、戦後補償もしていない日本が、この「日の丸」を国旗として制定することに対して強い憂慮の念を抱きます。≫

 誰に言われたくないといって、中南米やフィリピンで虐殺と文明抹殺の大罪を犯してきたカトリック教会の、その司教らからは、絶対に聞きたくない言葉である。この論法でいけば、十字架もまた侵略のシンボルではないか。まさかこの司教ら、自らの教会に、その
十字架を奉っているのではあるまいな。
 日本が「過去の侵略・植民地化の責任を認めず、戦後補償もしていない」と言うに至っては、事実誤認も甚だしい。
 まあ、この一節をもってして、すでにこの「お願い」状、無効と言えるのであるが。

 かさねてお願い状は言うのである。
≪「君が代」については、「君が代」の歌詞そのものが、天皇を日本の統治者として賛美するものであり、これは日本国憲法が定める主権在民の大原則に反するものです。私どもは天皇制軍国主義が犯した過ちを決して忘れてはなりません。従って「君が代」を国歌として制定することは容認できません。≫

 「君が代」については、また稿を改めて論じたいが、それにしてもこの司教ら、日本国憲法をいうのであれば、前文の第1文くらいはよく読んでもらえぬものか。
≪日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、…≫
 「君が代」に替わる国歌案を引っ提
げた議員をかついで、今度の参議院選挙で闘われてはいかがか。日本は、そういう政治行動が許されるアジアでおそらく唯一のありがたい国なのだから。
 どうぞご自由に、と申し上げたい。

 この司教らの西暦のすすめがまた振るっている。
≪大多数のカトリック学校では、学校文書や卒業証書などの年表記に元号が用いられ、キリスト暦でもある「西暦」(世界暦)が使われていないのが現状です。≫
 だから元号使用を止めて西暦を使えというのだ。

 がんばれ、司教らよ、西暦は「キリスト暦」だ! と大いに宣伝してほしい。
 全国の政府機関やマスコミに、「キリスト暦」を使いましょうと唱えつづけてほしい。
 政教分離がわが国の政府の原則ゆえ、公共機関はキリスト暦を使うことは許されないはずだ。日本国には、昭和54年施行の元号法はあるが、キリスト暦については何ら法律の定めはないのだから。

 
■佐々木神父さまの深い智慧
 コラム子は愛媛県松山市のキリスト教系の学校、愛光学園で学んだ。
 およそカトリックの神父さんは好きになれなかったが、ドミニコ会士のルドビコ佐々木利昭
としあき神父様はすばらしいかただった。
 この方を信頼して、多感なる高校三年の冬、洗礼をうけた。

 愛光学園には「宗教」という教科があって、佐々木神父が世界的教養を駆使して生徒たちを導いてくれた。

 あるときルドビコは、授業で生徒にこう問い掛けた。
 「君たちは、外国が日本に攻めて来たらどうするかね」。

 おおかたの生徒は、無抵抗に徹せよとばかりに憲法第9条のお題目でも唱えるのであろうと思った。
 ルカによる福音書第6章29節を見よ。
≪あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。≫

 ところが、佐々木神父はこう言われた。
 「平和とは、戦って勝ち取るものなのだ。戦って、戦い抜いて、はじめて平和がある。敵はいろんなところから、いろんな形で向かってくる。君たちは、したたかに戦うがいい。そのための知恵を神様は授けてくれているのだから。自ら戦わぬ者を、神様は決して助けてくれない。戦って戦って、はじめてそこに平和があるのだ。」

 共産党かぶれの社会科の教師の指導を受けていた生徒たちは、ガツンとカルチャーショックを受けた。よりによって、キリスト教の神父が「戦え」と言うとは。

 キリスト教は自殺を許さない。では特攻隊は?という問いが出てくるのだが、佐々木神父は特攻隊についても、こう語られた。
 「特攻隊は、人によっては愚行と切って棄てる人もある。日本軍が特攻作戦を始めたとき、米国でもこれは自殺行為であり神に反する行為であるという糾弾の声があった。しかし教会は、祖国のために命を捧げる魂の尊さを見て取った。『敵ながら、その自己犠牲の志
こころざしみごとなり』と賞賛した。」

 昭和2年生れの佐々木神父が神父への道を志したのは、相当に年がいってからのことだった。神学はもとより、難解なラテン語もマスターせねばならない。日本は貧しく、つまるところ旧敵国で、欧米に行けば日本人は何かにつけてばかにされていた。
 ルドビコ佐々木も例外ではなかった。
 
 なにくそ、と考えた末、とにかく何か言われたら言い返すことにした。言い返し続けたら、相手はルドビコをバカにしなくなった、というのである。
 
 国が異なる神父さんたちの集まりではラテン語で会話していたそうなのだが、そこで佐々木神父はあえて日本式の語順のラテン語をしゃべったのだという。文の最後に動詞をもってきた。
 これが受けた、というのだ。
 「あなたのラテン語は実に古典的なラテン語で、われわれには真似ができない」。
 ヨーロッパ人の神父さんたちにそう言わしめ、ルドビコは一目置かれた。

 佐々木神父様には長きにわたり様々の教えをいただいた。そのなかで鮮烈に覚えているのが、これらの話だ。
 そしてこれがいま、商社マンとして苦闘する自分を支えつづける力になっている。

 
■病気のデパートのような異端
 「日本カトリック正義と平和協議会」のホームページのメーンページを開けると、「あ、なるほどネ」と合点がいく。

 ここに件
くだんの国旗・国歌反対運動のお願い状も掲載されているが、麗々しくリンクを張ってあるのは、カトリックとはまったく関係のない政治運動のページである。
 歴史教科書検定問題や、慰安婦への国家補償要求運動。「基地はいらない!女たちの大行動」「日米新安保ガイドラインと有事立法に反対する署名」などなどに協力しているのだという。
 政治の病気のデパートみたいな異端のグループだ。

 カトリック教会の長い歴史ほど、輝かしい光と漆黒の闇を体現した歴史はないだろう。人間がいかに多種多様の不幸に取り囲まれ、罪深さに苛
さいなまれる存在か、教会は凝視しつづけてきた。教会そのものも、人々を神へ導く一方で、償いようのないほど深い罪も犯してきた。
 キリストの生涯も、聖書のひとつひとつの言葉も、多くの逆説に満ちている。そこで語られる深い智慧に、いつの世も人々は惹
かれ、そして救いと慰めを得てきたのだ。

 そういうカトリック教会が歴史教科書について語るとすれば、まず人間世界の明暗の記述にバランスを求めることだろう。数々の異端に悩んだカトリック教会であればこそ、歴史の主流と傍流を的確に判断することがいかに大事なことであるか、困難を極める営為であるかを語ってほしい。

 この世が逆説に満ちていることを知り抜いているカトリックの信徒にとって、極東国際軍事裁判のインド代表判事であられた Radhabinod Pal
ラダビノット パール博士の言葉ほど、心震ふるせるものはないだろう。

時が 熱狂と偏見を和らげた暁には、また理性が 虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに その所を変えることを要求するであろう。≫

 慰安婦についてカトリック教会が語るとすれば、その労苦もまた尊
たっといものであったと静かに慰めを与えることだろう。そして慰安婦の過去を卑いやしめの対象とする一部社会の偏狭を諌いさめることだろう。

■日本国憲法とキリスト教系学校
 この「日本カトリック正義と平和協議会」なるものがばら撒
いた「お願い状」、カトリック系の学校からは完全に黙殺されているらしい。
 当然、である。

 だが、黙殺だけでよいのか。

 この協議会、日本国憲法墨守がよほどお好きのようだが、その第89条に定めがある。
≪公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。≫

 今日ただいまの状況を言えば、この憲法規定をゆるく解釈して、キリスト教系の学校にも公的補助金が出されている。宗教教育を行う学校に対して、公金が提供されているのだ。
 それもこれも、児童・生徒に良かれと思えばこそだ。

 キリスト教系の学校が、イエス キリストの教えである政教分離の原則を忘れて、宗教の衣をまとった政治グループに翻弄される可能性があるのであれば、政府・地方公共団体からの補助は直ちに停止すべきである。
 あまつさえ、その政治グループがあからさまに公の支配を愚弄しているのであれば。
 
「日本カトリック正義と平和協議会」のような自称宗教団体が影響力を及ぼす可能性が存在する限り、キリスト教系の学校には憲法第89条の厳格な適用を検討すべきだろう

 「我らを試みに引き給
たまわざれ。我らを悪より救い給え」と夜毎に祈りは天に満ちるのだが、神様は我らを試みられるのがお好きである。
(平成13年4月1日)